2025119日 学び礼拝 ローマ人への手紙123-8節「奉仕」

 

2024年度は、礼拝の中で、学びを3回持つこととし、すでに「礼拝」、「献金」について学びました。今日は「奉仕」です。3つに共通点があり、礼拝も献金も奉仕も、私たちが神様に捧げるものです。そのわけは、まずは神様が私たちを愛してくださって、イエス・キリストを通して、救ってくださったので、その応答であり、心からする感謝、愛、献身のしるしです。その反対ではありません。恵みを受けるための行為ではありません。

 

いのちを持たない者はこれをなすことはできません。当たり前のことですが、霊的いのちを持たなければ、奉仕は喜びのない、強制された、やらされることとなってしまいます。私たちは、なぜ、奉仕をするのか、いつも原点に立たなければなりません。

 

神様は、人間が自分勝手に生きるのではなく、神様に従って歩むことを願っています。それは人間を支配するためではなく、幸せにするためです。ローマ12章冒頭で、神様に従うことこそ、神様に喜ばれる礼拝であると教え、その具体的なことが38節に記されています。4-5節「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」とは、一人の人の人体を例にとりながら、キリストの体には多くの器官、いろいろ働きを担う臓器があります。もちろん、五臓六腑だけではなく、手足も、頭も、目も耳も口も含め、体のすべてです。それらはキリストの体、言い換えて、教会が機能するために、欠かせない、大切な存在です。ただし、3節では、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」と教える。

 

私たちは、自分が体に不可欠な存在だと知って、思い上がる場合がある。そうではなく、慎み深く歩む。6-8節、「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」と教えます。

 

コリント人への手紙第一12章にも、これと同じことが記されています。そして15節に「足が『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったとしても、…からだに属さなくなるわけではありません。」/「耳が『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。」と教える。

 

人の中には傲慢になる人とは逆に、自分が無価値で、存在意味がないと自己卑下する人もいますが、聖書はそうではないと教えます。目も耳も鼻も手も頭も足も大切。

 

22-24節に、からだの中でほかより弱く見える部分、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分、見苦しい部分とあります。一般に頭が重要で、足なんかは軽くあしらわれますが、頭が考えたことを実際に行動に移すのは手足ですし、もし、足がなかったら、体を移動させることはできない。心臓は目には見えませんが全身に血液を送り、活動のエネルギを与える。神経もなければ、情報の伝達はできない。酸素を空気中から取り込んで、全身に送る肺も大切で、体に不要なものはない。

 

24節後半から27節「神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」と教えます。

 

実は、私たちは、与えられた賜物を通して、神様に仕えているのですが、人々に仕えながら、神様に仕えている。神様に仕えているのだから、人のことはどうでもいいとはならない。事実、ローマ12章で、具体的な奉仕を語りつつ、9節からは「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」と教える。

 

私たちは、教会は、そこに牧師がいて、牧師がなんでも頑張れば、存続すると考えることがある。しかし、実際は、すべての面で、教会員の存在が不可欠です。日本に8,00010,000の教会がありますが、その各教会に牧師が1人以上いても、教会員がいなければ、存続しない。教会が健全であるためには、教会員一人ひとりが神様に感謝と喜びをもって奉仕すること。そうすると本人も教会も生き生きできる。そして、牧師も祈りとみことばに専念できます。

 

礼拝だけに限って言っても、礼拝が成り立つには、執事がいて、会堂清掃から始まり、司会、奏楽、受付、週報・スライド準備、献金感謝、子ども当番、会計など、礼拝中だけでなく、礼拝前と、礼拝後の様々な奉仕があって成り立つ。奉仕神学生の時、役員会に陪席していましたが、役員会を始めるために、会計奉仕者を待っていました。役員会が終わっても、会計奉仕者はまた奉仕にもとっていました。ただ捧げられた献金を正確に数えるだけでなく、帳面に正確に記す。本当に神経を使う奉仕です。予算案の前提となる者を立案し、執事会で図ったものを議案とする。月ごとに報告を出し、一年の決算を出す。執事の奉仕も、礼拝、伝道、教育、庶務とある。計画を立てるのも、実行に移すのも、良いものにして続けていくのも大変だし、執事だけにまかせっきりではなく、教会全体の祈りが不可欠です。LCの働きもLC前に来て、祈って打ち合わせ、実施されている。各種行事もなされている。何事にも初級、中級、上級があり、上達していくが、例えば、受付も、初めは出欠だけを見る。中級は顔と名前をしっかり覚える。上級はその人の今日の気持ちを察する。成長できるとよいです。

 

 教会に集っている子どもの対応は、その親だけではなく、教会全体でかかわれることが必要です。12/15のオープンチャーチに来てくださった方々の多くは、キリスト教系の幼稚園に行っていたとか、教会学校に行っていたという人が多かった。種まき、水撒きの働きは大切です。

 

イエス様をもてなしたマルタとマリアの話がルカ10章に記されています。マルタはイエス様をもてなして喜ばせようといろいろ奉仕する。妹のマリアはイエス様の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。日本人100人のキリスト者に「この状況をあなたはどう思いますか。」と聞くと、どういう答えが返ってくるか。「マリアはマルタを手伝うべきだ」というのが多いのか、「マリアのしたいようにさせたらいい」となるか、「マルタもイエス様のお話を聞いたらいい」というのか。40節、「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』」と言ったが、なぜ、直接マリアには言わないで、イエス様に言うのか不思議です。もう、二人だけでは解決できなかったのかもしれません。41節、主は「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」と語られた。

 

主のみことばを聞くことが奉仕なのか。あるいは礼拝なのか。「私は今礼拝という奉仕をしているので、手伝えません」という口実のためにここを引用するのは良くない。しかし、マリアは大切な選択をした。そして、主イエスは、マルタの奉仕を否定はしていない。

 

みんなで一緒にできる奉仕も大切ですし、みんなのためにする奉仕も大切です。そして、マルタのように人々に仕える人も不可欠です。しかし、やっているのは自分だけで、ほかのみんなはやっていないと考えると、教会とは何なのか、奉仕とは何なのか、問い直す必要がある。それは我慢して、黙ってやりなさいというのではない。与えられた賜物を主のために用いるのか、土の中に埋めておくのか。ルカ1248節に「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」とあります。「私は多くの賜物はいらないです」と言うのか。

 

心身霊が健康で、喜んで奉仕できることが大切です。「良くやった。忠実なしもべ」と主におっしゃっていただけることを楽しみにしている大勢のしもべたちがいて、実に、主はそうされる。

 

奉仕は、時間があって、暇だからするとか、忙しいからしないというものではない。みんな一律に同じことをするのでもない。だけど、私の奉仕はこれだから、私は手伝わないというのではない。また、神様の働きに静と動があります。私たちも同じです。働く場と静まる場と。割合はともかく、どちらもが必要で、イエス様も静まられて活動した。イエス様は弟子の足も洗われた。模範を示された。5000人の給食の時、一人の少年が持っていた5つのパンと2匹の魚が用いられた。弟子たちは、これでは足りないと言ったが、主は小さき者の、小さな物を豊かに用いられた。また、私たちにとって、平等に思えないことが多々ある。先のものが後になり、後の者が先になり、朝から働いた者も、終わりの一時間働いた者も1デナリであったりする。しかし、主の観点ではみな等しく恵みを与えられている。人と比べると「どうして」と不満が出てくるのであれば、人と比べなければない。イエス様は、神の子として、人々に仕えられる存在であった。なのに、主は自ら私たちに仕えられた。究極は、私たちの代わりに、十字架にかかられた。

 

コリント人への手紙第二515節「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」

 

 

 主に喜ばれる礼拝、献金、奉仕を続けていきましょう。始めましょう。



2025112日 主日礼拝 ヨハネの福音書531-47節「キリストの自己証言」

 

私たちの生活の中で、証言が必要になる場面があります。事件などの目撃者、そして容疑者の供述。本人が自白している場合でも、正確さを期すため、他者の証言が必要とされる場合がある。自分がやりましたと言っても、身代わりもある。

 

犯罪や裁判に全く関係ありませんが、神学校に入る場合、その人の心の内が問われます。一番大切なのは、その人の能力や熱意よりも、神様からの召しです。それが明確でない場合は、召しが明確になってからの入学となります。また、本人が神様から召しを受けたというだけではなく、教会も、そのことを確信していない場合、入学が許されません。

 

神学校に入ると、当然、聖書について、神様について、聖書について、学びます。聖書、神様、キリストについて聖書は何と言っているのか。自己証言とその妥当性を他者の証言では何と言っているか問います。用語では、内的証明(内的照明)、外的証明(外的照明)と言います。Proofを使わず、明かりを照らす、lightingを使う場合もあります。

 

クリスチャンは聖書が神様のことばであり、イエスこそキリストであり、神様こそ、真の神様であると信じ、確信していますが、神学校でも、改めて、そのことも含めて、学びます。

 

未信者に向けた伝道集会で、イエス・キリストは本当に神の御子なのか、あるいは本人の思い込みなのか、うそなのかをテーマに話されることがあります。真実か、妄想か、虚偽かという言われ方がします。妄想には精神錯乱、精神疾患もあるでしょう。異端で、教祖がキリストだと名乗るときも人をだます意図を持っている場合と、だます意図はないが真実ではない、本人の思い込み、あるいは願望の場合とがあります。先週の目の見えない人の場合も、本人とその両親に、生まれつき目が見えなかったかどうか、どうして見えるようになったのか、確認がありました。

 

バプテスマのヨハネの場合、自分はキリストの露払い/先駆者であって、キリストではないことをいう。パウロとバルナバは、リステラで足の不自由な人を癒したとき、住民に神々だと思われ、マルタ島でもパウロは神だと思われましたが、神ではないので、それらを否定しました。もちろん、事件の犯人も「お前がやったんだな」と問われても、「その通りでございます」と観念する人ばかりではないので、本人の自供の矛盾点を提示しなければなりません。

 

異教世界では動物も物もそして人間も神になり得ます。しかし、造り主を知る民は、目に見えない神様を目に見える形ではとらえません。聖く、永遠なる存在を、有限の肉体を持つ人間と同等にとらえません。非常に妥当だと思います。ところが、例外があった。それがイエス様です。ピリピ人への手紙2章では、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」壁を越えられた。これは神様だからできることであって、その逆に、人間が神になることはできない。

 

今日の聖書個所は、ナビバイブルでは「イエスが自分の主張を立証する」という項目にしていますが、それがほかにないわけではなく、ヨハネの福音書では「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とか、イエス様にしか言えないことを語っています。ヨハネの5章では38年間病気であった人を癒しました。ここでつまづきを与えたのは、癒した日が安息日だったということ。私たちも日曜日の礼拝は大切にしています。イエス様がいつ、何をしても私たちは何ら不満がありませんが、誰かが主日に何かをするとしたら、あえて主日でなくてもいいのではないか、ほかの日でもよいのではないかと考えます。イエス様は、自分たちの枠組みでしか物事を見ることのできないユダヤ人や人々に、チャレンジしています。私たちは、自ら神の教えとして守ってきたことを、誰かの指図で、変えたくない。しかし、神様の指示であれば変えなければならない。

 

イエス様の行動原理は、30節、「わたしを遣わされた方のみこころを求める」です。31節、自分の証言が、自分だけのものであれば、それは不十分であることを認めます。32節のほかの証言は父なのか、聖霊なのか。どちらかに決めなくても、三位一体の神ということでいいと思います。そしてバプテスマのヨハネの証言。イエス様の考えとしては、人間の証言を受けないが、あなたがたが救われるためには、ヨハネの証言も用います。そして、イエス様が行われているわざもイエス様がキリストであるという証になりします。

 

エジプトでモーセが神様から遣わされていることをファラオに証しようとしましたが、ファラオに命じられたエジプトの呪法師もはじめのうち、同じことをすることができましたが、ついには、まねできなくなりました。ファラオは認めたくないが、モーセは主なる神様によって遣わされたということが明らかになります。

 

神様が主イエスを遣わされた証として、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と語られましたが、ユダヤ人たちは、それを聞くことはできなかった。そこにいなかったからというのも事実だと思いますが、イエス様は「父が遣わした者を信じないからからです」と言います。

 

聖書がイエス様をキリストであると教えているのに、イエス様のもとに来ようとはしない。そして、ユダヤ人は神様に従っているようでも、42節、「神への愛がない」と指摘されます。神様の栄誉は求めず、自分たちで栄誉を与え、受け合う。つまり、神様を信じ、神様に従っている私たちはお互いに素晴らしいですね、と。神様からの栄誉を受けたかったら、生き方、考え方を変えなければならない。私たちは、神の救いを受けました。それは栄誉に勝る事柄です。いや、自分で達成したのではなく、与えられたので、救いの提供者である神様をほめたたえます。

 

イエス様の自己証言は、ユダヤ人がすんなり納得するまでは進みません。神様からの栄誉を求めていないからです。そして、モーセの教えは、キリストに導くものであったのに、かたくななユダヤ人にとっては、キリストを拒絶するものとなっています。イエス様の自己証言はことばだけでなく、わざ・しるしも伴っていました。

 

 

さて、イエス様は神様から遣わされた者と自己証言し、私たちも、確かに、イエス様は神の御子であると証言します。では、あなたは、イエス・キリストをどう見るのか。本当に、私たちの救いのために人となられた神なのか、それとも、タイミング悪くキリストと思われて、神を冒涜していると訴えられ、十字架で死んでしまった哀れな人なのか。私たちに救いと平安をもたらすこの方に対する信仰表明はとても大切なことです。



202515日 新年ファミリー礼拝 ヨハネの福音書9章「目の見えない人をいやす」

 

このヨハネの福音書9章に出てくる男性は、生まれた時から目が見えなかった。何が原因なのか、イエス様の弟子たちは、罪の結果であろうと考え、本人の罪か、両親の罪かと、イエス様に聞きます。こういう質問は心無い質問です。でも、私たちも、なぜなのかと心の中で尋ねたり、思いめぐらせていることかもしれません。

 

主イエス様の答えは原因ではなく、「この人に神のわざが現れるためです」と、目的を語ります。そして、地面に唾をして、泥を作り、目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と命じます。

 

人が病気で癒されるにはいくつかのパターンがあります。本人が求める場合、周りの人が求める場合、本人も周りも求めないのに、イエス様が癒される場合。目の癒しも、今回のように泥を塗る場合、単に命じられる場合。真似て、同じようにしたら癒されるのではない。

 

目が見えなくても、シロアムの池には行けた。あるいは、付き添いがいたのかもしれません。ヨハネ5章に出てきた病人はベテスダの池で、水が動いたときに、癒されるために、ずっと待っていた。そこにも目の見えない人もいました。耳と体で風を感じたら池に飛び込もうとしていたのでしょう。一方、こちらの男性は、物乞いをしていた。物乞いとは、今、日本にはあまりいないですが、道端に座って、お金を入れる帽子か箱を自分の前において、そこを通る方々に、声をかけるか、姿を見せて、働けないので恵んでくださいとアピールする。ある意味、大変なことかもしれません。いつもこの人の姿を見て、毎回、お金を与えるのも大変なことかもしれません。エルサレムの神殿に礼拝に来た人は彼にお金を渡したても、自分たちも、余すほど豊かではないかもしれません。

 

一番いいことは目が見えるようになって、自分も働くことができるようになることです。そして、イエス様はこの人の目を癒してくださいました。

 

ところが、イエス様とこの人のやり取りを知らない人は、なんで目が見えるようになったのか不思議に思います。ある人は、あの物乞いには似ているけど、別人ではないかと考えます。本人に聞くと、イエスという人が泥を塗り、シロアムの池に行って洗ったら見えるようになったと言った。パリサイ人たちも、彼の目がどうして開かれたか、関心を持ちます。ただ、目が見えるようになったのが安息日だったので、パリサイ人たちは、主イエスは神様に遣わされたものではないと結論付けてしまいます。弟子たちも、パリサイ人も、自分たちが思いつくことで、物事を判断しますが、神様は人間の考えをはるかに超えたことをなさいます。安息日も、人が神様に従うかどうかの基準ではありますが、これを超えてはならないものではないことを主イエスは教えてくださいます。

 

パリサイ人は「イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放する」と決めていました。料簡が狭い。そして、イエス様を罪人であると決めています。しかし、ユダヤ人がイエス様についてどう言おうと、「私は盲目であったが、今は見えるのです」と言う。今からちょうど300年前に生まれ、奴隷船の船長だったジョン・ニュートンが改心後に作詩した「アメージング・グレイス」は、教会福音讃美歌では歌詞が変わってしまいましたが、原詩では(I) was blind, but now I seeとあり、ここを引用しています。ちなみにイエス様はルカ19章で、ザアカイを指して「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」も、この曲でI once was lost but now I was found.と一人称にして述べます。

 

さて、パリサイ人は主イエスを罪人と言いますが、目が見えなかった人は、神様は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神様の御心を行う者の言うことはお聞きくださいます、と言います。この発言で、この目の見えない人はユダヤ教のグループから仲間外れにされます。

 

イエス様はこの人のところに行き、「あなたは人の子を信じますか」と聞きます。この人は「私が信じることができるように教えてください」と言います。人のことは、イエス様がご自分のことを「人の子」とも言われますが、神様がお遣わしになった救い主のことです。「あなたと話しているのが、その人です。」と言うと、「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝しました。

 

先月、私たちは救い主の誕生を祝い、喜びました。クリスチャンは心から感謝しました。そうでない人は、教会にも来て、正月には神社に行って参拝することもあるかもしれません。人を造り、人を愛し、人を救い、人を導いてくださる神様を信じるか、人が作り、人がお世話しないとすたれてしまうものを信じるか、違いは大きい。

 

 

あなたはどうしますか。まだわからないこともあるかも知りません。でも、イエス様が私たちの救い主と信じるなら、そのことを心に秘めないで、表明して歩みましょう。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とローマ人への手紙10章10節にあります。



20241229日 主日礼拝 詩篇561-13節「感謝のしるし」

 

 私たちの生涯を振り返って、神様に感謝することと言えば、自分にいのちを与えられ、家族が与えられていること、健康が支えられ、仕事が与えられ、日々、導かれ、助けられ、教えられ、祝福されているということです。もっと具体的な事柄もあります。

 

 この一年に限っても、同じことですが、光の子聖書教会にとっては、何といっても新会堂に導かれたことです。また、5月には受洗がありました。青年向けのDAWNがあったり、小中高生のキャンプがあったり、そして現在国際キャンプがあったり、主の恵みの中で感謝にあふれます。

 

 もちろん、困ったこと、悲しいこともありました。愛するものとの別れ、病気やケガ。しかし、その中でも、神様は慰めと回復を与えてくださいます。詩篇11971節には「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」とあります。やせ我慢ではない。またパウロもコリント人への手紙第一 1013節で「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」と語ります。

 

 キリストを信じたら、すべてバラ色と思っているとつまづく。アブラハムの家系で、ダビデの先祖のヤコブもファラオに対して謙遜もあるのでしょうが、「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(47:9)と告白しています。

 

 先週のクリスマス祝会の折、同じテーブルに座った方が、娘さんに北海道旅行をプレゼントされ、三浦綾子文学館で、ある方が質問した内容を話してくださいました。「三浦綾子の時代のクリスチャンと現代のクリスチャンとでは、何が違うんでしょうね?」に対して、即答で「覚悟です。」ときた。これはキリストに従うという覚悟。そのためには迫害されようと、死に至ろうとなんら、いとわないとするもの。まさに、エステルやダニエルの信仰と同じ。異教世界においてであろうと、キリスト教社会においても、問題は起こります。

 

 結局は、「神様とともに歩む」ということを求められている。「神様を信じているから大丈夫」という告白も、二つに分かれます。神様を信じているから、困ったこと、苦しいことは起こらないとする信仰と、何が起ころうと、いや、たいへんなことが起ころうと、神様が私たちの味方だから大丈夫という信仰と。信仰が深まれば、神様を信じているから大丈夫だの実態は、何も起こらないではなく、何かが起ころうともということを知ることになります。

 

詩篇6612節に、「あなたは人々に私たちの頭をまたがせ私たちは火の中水の中を通りました。しかしあなたは私たちを豊かな所へ導き出してくださいました。」とあり、イザヤ書432節にも「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と約束が述べられています。水はエジプト脱出の時の紅海を、火は灼熱を意味しますが、日本語の中にも「火の中水の中」という言葉で、苦しみや困難を表しているのは面白いですし、日本人のルーツがどこにあるのかも思わせます。

 

新会堂が建って、快適な部分と不都合な部分があると思います。ひとつは靴を履いたまま、出入りできるのは良いことです。賛美もオルガンも響きが良い。しかし、その反響が今までとは違って、音が聞きにくい場合もあるでしょう。

 

旧約聖書では、物を買う時、難癖付けて、ここが悪い、あそこが悪いと言い、値引き交渉し、買い終えると満足して、良いでしょうということが記されていますが、私たちはどうでしょうか。初めは喜びとやや興奮状態にある。しかし、冷静になり、段々、粗が見えて来る。目を瞑れというのではなく、現実をしっかり受け止めて、対処していくと良い。自分の人生も同じですし、学校も会社も結婚もそうです。諦めるのではなく、受け止める。

 

申命記47-9節には神様との歩みについて、「まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。8また、今日私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民が、いったいどこにあるだろうか。9 ただ、あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」とある。約束の地に入った時の注意事項として、申命記810-14節「10 あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。11 気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。12 あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、13 あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、14 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。」

 

私たちは神様の恵みを忘れ、文句を言い、仕事の成功でも何でも、神様に栄光を帰さず、自分をほめてしまうことがある。だからこそ、なお、神様への感謝、賛美は忘れてはならない。

 

レビ記では感謝のささげものがささげられています。ローマ書では私たち自身を生きた供え物として捧げなさいとあり、物でなくても、感謝の心を主にささげ、賛美を主にささげることができます。

 

 

詩篇5014節では「感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いをいと高き神に果たせ。」とあり、「神様。私の願いをかなえてください。そうすれば、何々します」という請願を立てたならば、それを誠実に果たすことを勧めます。詩篇5612節も同じく「神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。」とあります。もちろん、私たちは新会堂が建てられましたら、何々しますとは誓ってはいません。ただし、112日の献堂式においては、礼拝の場、宣教の場、祈りの場、交わりの場、人を愛する場、人を赦す場、奉仕と成長の場として用いていただくように主に約束します。詩篇56篇は、人に踏みつけられ、虐げられる中、主に信頼する。神様を信頼していても痛めつけられ、不法に扱われる。蓄えられるほどに涙を流す。しかし、神様が味方であり、みことばに支えられ、神様以外を恐れない。だから、神様に感謝を表明しています。感謝は一日、一週間、一年、生涯を締めくくるのにふさわしいことです。



20241222日 クリスマスファミリー礼拝 ルカの福音書28-20節「救いと平和」

 

 クリスマスおめでとうございます。今日は私たちの救い主、イエス・キリストの誕生を感謝し、お祝いします。

 

 14日はLCに来ている中学生のお誕生日でした。15日は礼拝に来たお二人の方のお誕生日でした。誰でも、人間は、お母さんから生まれなければこの世界に存在しません。

 

 生まれたから、愛され、喜ばれるわけです。家族やお友達がいるということは、本当にうれしいことです。もちろん、喧嘩することもあります。お互いに迷惑をかけたり、かけられたりします。だけど、家族やお友達がいなければ、寂しいものです。つまらないものです。

 

 喧嘩したり、迷惑をかけたり、意地悪されたり、嫌になったりするのは、自分中心だからです。それを聖書は罪と言いますが、罪の原因は、アダムが神様に逆らったからです。その影響が、今も私たち人間すべてに及んでいます。

 

 イエス様がお生まれになったのは、私たちの罪を赦し、神様に従うことのできる力を与えるためでした。神様に従う力と言いましたが、神様に従うことを喜ぶことのできる力とも言えます。イエス様は、イエス様を救い主として、信じ受け入れる人々すべてに、従う力、喜ぶ力をくださいました。それは罪の支配からの解放とも言います。

 

 今でも、世界は救いを必要としています。そして、平和を必要としています。なぜなら、世界は今も争いがあるからです。みんなイライラして怒っています。ロシアはウクライナから土地や資源、人のいのちを奪い、自分のものとしようとしています。イスラエルでも、周辺の国々と対立しています。

 

 みんなは本当は戦いたくない。でも、人のものを奪い取ろうとしています。どうしたら、争いがなくなるのか。奪われる前にあげると良いのか。いや、その人の心が変えられ、今持っているもので満足すると良い。もちろん、人が持っているものを見ると、自分も欲しくなってしまう。シリアのアサド大統領は、高級車を40台も持っていたという。国民が苦しんでいるのに、あれもこれも欲しいとなった。満足することができないとあれもこれもなんでもすべてほしくなってしまう。神様が私たちの心を満たしてくだされなければ、お金をいくら儲けても、どれだけ世界中を旅行しても、美味しいものをたくさん食べても、寝続けても満足しない。神様しか満たすことのできない穴を他のもので埋めようとしても無理なのです。

 

 救い主が誕生した時、その知らせは御使いによって、羊飼いに告げられます。羊飼いは、当時、身分の低い人たちでした。寒くても、夜でも、羊を守らなければなりません。でも、御使いは、羊飼いたちに、11節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と伝えます。

 

 羊飼いたちは御使いの語られたことを信頼して、15節「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と出かけます。16節「急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。」御使いの言ったことは本当でした。次に羊飼いたちは、17節「この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。」羊飼いは他のみんなに伝えます。

 

 世の中には、上の人と下の人はいないと思いますが、お金持ちを上の人、貧しい人を下の人ということがあります。上の人は素晴らしいことがあっても、他の人には話さないで、自分たちで独り占めすることがあるでしょう。下の人は、自分たちだけのものにしないで、みんなに分かち合う。だから、御使いは、羊飼いたちにこの素晴らしい知らせを伝えました。もともと御使いは、10節、「私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」と言いました。そして、羊飼いはその役割を果たします。

 

 イエス様の誕生の時、多くの人が自分の役割を果たします。シメオンとアンナは神様の約束を信じて待っていました。ザカリヤは年老いた祭司で、子どもを望んでいたがかなわず、ようやく年老いた妻エリサベツを通して、ヨハネを授かります。マリアはまだ年若く、いいなずけはいたが、結婚前にフィアンセ以外によって子どもを持つことは避けたかったが、ダビデの家系を継ぐ、聖霊なる神によってキリストを胎に宿すことを受けためましたし、エリサベツが神様によって妊娠したということも、決意を強めることになります。

 

 この民全体とは、ユダヤ人だけなのか。しかし、聖書は、救いが全世界に及ぶことを事前に語り、実際、イエス様による救いの福音は、段階的に全世界に広がりました。

 

 それは経済的に貧しい人にも、豊かな人にも、お年を召した方にも、幼い人々にも、男性にも、女性にも、ダビデの家系や祭司の家系の者にも、羊飼いや漁師、どんな職業にも。

 

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とは、今から2000年以上も前の、ユダヤのベツレヘムでの出来事も指しますし、私たちがイエス様を救い主として受け入れた日、また、これからイエス・キリストを救い主として受け入れる日を指します。

 

13節、「その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。」とあります。その内容が14節の「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」です。

 

神様がお住まいになる天を「いと高き所」と表現し、天では神様に栄光がありますようにと言います。ほめられ、たたえられるお方は神様の他にはおりませんという告白。それは、罪人のために、ご自分の御子を惜しむことなく、救い主として、地上に遣わされたから。そして、地上には平和があるようにと宣言する。ただし、神様のみこころにかなう人々に限られています。神の御心に従って生きない人々には、平和はない。平和とは、神様と人、そして人と人の関係の調和であり、安心であり、喜びです。

 

 

 イエス・キリストは全人類の救い主としてお生まれくださいました。感謝です。神様を心からたたえます。



20241215日 主日礼拝(アドベント第3) ルカの福音書126-38節「おめでとう、恵まれた方」

 

 今日からアドベント第三週です。今日は神様の約束に対する戸惑いを見ます。

 

 しかし、その前に、新会堂での最初の礼拝となります。京王線の高架化工事に伴う移転。代替地の提示と公社との契約。京王不動産からの売買。会堂のプレゼン、コンペ、契約、着工、検査、引渡しとかなり端折しましたが、登記のこと、土地売買のこと、施工のこと、交渉のこと、それぞれふさわしい方々のご努力、ご奉仕、また、兄弟姉妹の祈りと諸教会の祈りをもって今日を迎えられることができ、感謝です。今日のオープンチャーチ、また、三教会の皆様にも1229日、15日のオープンチャーチ、そして、112日に献堂式を迎えます。

 

 ここの土地は京王パーキングでしたが、宗教法人朝顔教会専用駐車場となり、建築の公示、工事の開始、ご近所の皆様には、何ができるのかな、いつできるのかと関心を持っていただき、シートが外され、外構工事もすみ、先週教会の玄関の中に立っていますと、行き来する皆さんが、中の様子をご覧くださっていました。何度もお通りになる方もいました。今までは、ドアがあって、外からも中からも互いに見ることができませんでしたが、今度は、まずはガラス越しに見ていただけ、関心があれば、入っていただくこともできます。

 

 それは、私たちにも言えることで、クリスチャンホームでなければ、教会の存在を意識することもなく過ごし、何らかのきっかけで、中に入るようになり、信仰をもって、神様のこともよくわかるようになります。もちろん、神様は、私たちが見せてもいなく、話してもいなくても、すべてのことをご存知でいてくださるのは、恥ずかしいようで、感謝なことです。

 

 さて、アドベント第一週は神様の約束、第二週は約束に対する希望でした。第三週は、実は、戸惑いです。内省と言ってもいいですし、果たして私は喜んでいいのか、約束を受けてもいいのかということでもあります。ところが、教会の掲示板にも提示されますが、「戸惑い」という説教題で、初めての方が教会に入るのには、その戸惑いを大きくすると思い、御使いがマリアに語った言葉としました。

 

 マリアやその時代の人々は天使をどうとらえたのか。ヘブル書132節には、「ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」とありますが、マリアは天使と分かったのか、わからなかったのか。

 

 実は、バプテスマのヨハネの父ザカリヤは112節で、取り乱し、恐怖に襲われたとあります。自分が神殿の奉仕に選ばれ、自分しかいないはずが、別な人がいたので、びっくりしたというのか。御使いは「恐れることはありません」と言います。

 

 マリアの場合は、28節「御使いは入って来ると」とあります。ナザレの町に入ってこられたというよりは、マリアの家にでしょう。マリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」という。29節「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」とあります。今でいえば、想定外の事柄が起きている。経験したこともない。どんなに考えても予想することのできない状況です。常識外れの事柄というか、ぶっ飛んでしまう状況です。御使いは、「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」という。更に、見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」という。マリアは冷静沈着です。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」という。すると御使いは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」という。そして、不妊のエリサベツの例を挙げてあの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。」という。ダメ押しなのか、御使いは「神にとって不可能なことは何もありません。」という。

 

 突拍子のないことを言われて、戸惑い、困惑する人がいます。そして、頑なに、疑い続ける人もいる。それが悪いとは思わない。だまされないためには、疑う必要もある。しかし、それが真実であれば、疑い続けることは残念なことでもあります。

 

 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と。マリヤにそういう気持ちにさせたのは何か。年老いたエリサベツが子を宿したということか。「神にとって不可能なことは何もありません。」というか。あるいは両方か。あるいは目の前に現れた天使の存在か。

 

 私たちは救い主を宿したわけではありません。しかし、私たちは救い主を心に迎え入れた。信仰者の数がどこの国も女性が多いですが、男性の一部の方は、信仰を持つのは弱い人だとか、女性や子供たちのすることで、男のすることではないという。それでも、私は、イエス様を知り、信じ、ともに歩めることは感謝です。

 

 女性だからと言って、誰もが信仰を持つのではない。そういう意味でも、信仰を持った女性たちも、幸いであります。

 

 そもそも、こんな罪人のために、神の御子がお生まれくださったというのは驚き、戸惑いとなるでしょう。でも、主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」という。

 

 「おいおい。キリストは俺のことを正しい人ではなく、罪人としてみなしているのかい。」という戸惑いもあるかもしれない。しかし、戸惑いを越えて、神様のことば、聖書、その中に記されていることを少しずつでも、受け止められると幸いです。

 

 

 マリアが御使いに会い、言われたことが成就するまで、10月を要します。その間、エリサベツの訪問もありますが、神の約束、そこから生まれる希望に包まれ、マリアは時を過ごすこととなります。



2024128日 主日礼拝(アドベント第2) ルカの福音書225-38節「神に対する希望」

 

 今日からアドベント第二週です。今日は神様の約束に対する応答、そして、希望を見ます。

 

子どもの頃、「いい子にしていないとクリスマスプレゼントがもらえないよ」ということをよく耳にしました。しかし、私はいつも、いい子にしていられない子どもでした。というか、いい子にしていたくても、例えば弟が私を怒らせたり、人との関係で、こちらがいくらいい子にしていたくても、思い通りには行きませんでした。

 

約束には、条件付きのものと、無条件のものとがあり、例えば、いい子にしていれば約束が叶うものと、誰に対しても、無条件で約束が叶うものとがあるでしょう。救い主の誕生の場合、誰に対しても与えられるという面では対象の制限はありませんが、救われるのは、イエス・キリストを信じなければなりません。

 

そもそも、約束を提案する側の、本気度と、実行力も初めに考えなければなりません。子どもの頃、ブラジルでお仕事をしている日本人がうちに2泊しました。一緒にふろに入りました。「桂司君。何か欲しいものがあるかい。ブラジルに帰ったら送ってあげるから。」「サッカーボール」というと、「そんなのおうちにだってあるでしょう。」という。「ブラジルのサッカーチームのユニフォーム」といったら、「わかった」と。帰ったら送ってあげると。1ヶ月経ち、3ヶ月経ち、半年、1年経ち、あれから50年、いまだに送られてきません。だまされたというのか、のせられたのか。そんなのさっさと気づけよとということですが、最初から疑うと、すべての可能性を失います。あの人は、初めから送るつもりはなかったのか。忘れちゃったのか。送ったのに、途中で、誰かにとられた可能性もゼロではありません。

 

人間はウソを言う場合もある。置かれた状況で、出来なくなることもある。多忙で失念することもある。しかし、神様は、自ら約束して、それを果たせなくなることも、忙しすぎてお忘れになることはなく、交わされた約束をたがえることはない。

 

旧約時代は、契約するときに、動物が引き裂かれ、もし、約束をやぶったら、そのように自分もされるということを確認します。

 

神様との契約、約束のうち、こちら側に求められることは信じること。信じて待つこと。しかし、この約束を待つということは、結構大変なことでもあります。あなたの彼でも、彼女でも、都会か田舎か、海外の「大学で4年間学んでくるからそれまで待っていてほしい。卒業したら結婚しよう」という人がいたとします。果たして、お互い4年間、待っていられるのか。国内なら、休みごとの帰省も可能でしょうし、海外であっても、毎年帰国することは不可能ではない。今はビデオ電話があるので、助けになるが、国際電話がそう安くない時代の方々、手紙のやり取りに何カ月もかかった時代の方々は、待つことが必要だった。相手への信頼、愛情があって、誠実に約束を果たされた方々がいます。

 

こっちは大丈夫として、相手を信じられるのか。いや、相手は大丈夫でもこちらがふらふらしないかということもある。信じられない相手とは約束はしないとして、信じられる相手であっても、長い時間や距離は大きな壁となります。

 

時間がかかろうと、ヤコブはラケルを妻とするために、ラバンに7年間仕えた。ヤコブにとってラケルを妻とするための7年間はひと時でした。しかし、ラケルではなく、レアが妻となります。だまされたヤコブは、ラケルのために更にもう7年働いた。

 

 シメオンはキリストの出現を待っていた。いつ言われたのか。どのくらいの期間待ったのかは不明です。しかし、26節の「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」とか、29節の「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。」とあることから、キリストに出会ったときは高齢であったと理解されます。

 

 聖霊は主イエスを信じた人のうちに住まわれるが、それはイエス様が召天された年のペンテコステの後になされたことです。25節、シメオンは敬虔な人、つまり神様を恐れ敬う人であったが、聖霊はシメオンの上におられたが、中には入られていない。しかし、シメオンは聖霊に導かれて宮に行くとヨセフとマリアが御子イエスを連れて入って来るのを目撃し、御子を抱き、主をほめたたえます。

 

 シメオンは主の約束を確かにいただいた。仮に10代のシメオンが90代になっていたとしたら70年間、80年間待ったということになります。たった1年待つだけでもすごいことだと思いますが、疑わずに待った。疑ったというか、思い違いかなと思ったことがあったかもしれないが、待ち続け、神様に従い続けた。

 

アンナは7年間の結婚生活を持ち、おそらく夫と死別したのでしょうが、それから、あるいはそれ以前から、36節、女預言者として歩み続け、イエス様の誕生の時は37節、84歳になっていた。「彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。」と。これがアンナの待ち方でした。他のことをしていたら、気がまぎれるのかもしれない。それも一つの方法。しかし、本当に大切なことが重んじられなくなる可能性もある。アンナは場所を宮に留め、昼も夜も神様に仕えた。

 

 

 シメオンとアンナは、それぞれ正しい生き方をしています。しかし、彼らにとって、自分と神様の関係に加えて、シメオンで言えば、25節、「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。」ということと、31節、「あなたが万民の前に備えられた救いを」見るということでしたし、アンナで言えば、38節、「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語」るということでした。もちろん、シメオンとアンナが救い主にお会いしたら済むということではなく、シメオンは主イエスの母マリアに、「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」と語り、神の御子として受け入れる者とそうでない者が生じること、そして十字架の上で死なれることを語ります。同じくアンナは余命限られていますが、救い主の誕生を証しします。つまり、神様の約束に対して、待つこともしますが、待ちながらする営みもあり、約束が実現した時の働きもある。そして、この約束を希望としている人々は待つことができるが、希望を伴わないと辛いことになってしまいます。



2024121日 主日礼拝(アドベント第1) イザヤ書91-7節「神の約束」

 

 今日からアドベント第一週です。アドベントの基準が1130日に一番近い日曜日ですので、11月にアドベント第一週を迎えるのは七分の四(57%)12月迎えるのは七分の三(42%)となります。

 

 アドベントの過ごし方は教会によって、人によって違いますが、第一週は神の約束、第二週は約束への応答としての希望、第三週は罪の現実としての落胆、第四週は神の約束の確かさ、そして、クリスマスは救い主の誕生の輝きと喜びとすることができます。あるいは備えとしての内省、自己吟味も入れることができます。そして、喜びの前に、静まりの時、祈りの時を持つこともできます。

 

 クリスマスを数ある行事の一つととらえる人もいますし、人生で重要かつ重大なイベントととらえることもできます。年齢とともにわくわく感は減少するものかもしれませんが、逆に、感謝にあふれる事柄として捉えるようになるとも言えます。

 

 では、アドベントの大週は、何をもって、神の約束とするか。

 

事の発端は、アダムが神様に背いて罪を犯しました。「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と命じられているのに、蛇はエバをだまし、エバはアダムに与えました。蛇もエバもが罪を持ちますが、アダムの罪の程度が低くなるわけではありません。アダムは神様の命令を受けた者としての責任があります。そして、神様はおっしゃった通り、人を裁くのですが、愛と恵みに富む神様は、救済も与えられました。創世記314-15節に「神である主は蛇に言われた。『おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。』」と。これは神様が蛇に語った裁きのことばですが、「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」とは、キリストが蛇の働きを致命的にすること。蛇もキリストのかかとを打つ。これはキリストの十字架と理解されています。

 

 ここでは、人をだました蛇の働きはやがて終わること、霊的に死んだ私たちは救い主キリストによって、回復をいただくことを約束しています。

 

 また、アブラハムに対する神様の約束、契約は、信仰によって、血筋としてはアブラハムの系図を継がなくても、信仰という点で、神の子とされるという約束もあります。創世記1213節「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」ここは、アブラハムの生き方に賛同し、自分も信仰の営みをする決意を持つことを言います。

 

 神様は、アブラムや私たちに、段階的に真理を理解させてくださる。創世記1556節では、「主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる。』アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」とあります。結婚はしていたものの、イサクどころかイシュマエルもいなかった時分のアブラムですが、このダイナミックな神様を信じたのです。私たちも、天に用意されている住まいを見れば、永遠のいのちを実感しやすいかもしれませんが、アブラムには星を見るだけで、神様のすごさを受けとめました。

 

 またも創世記17章にも、神様の約束があります。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」とおっしゃられた。

 

 ある者は、これはユダヤ民族に限るとか、割礼を受けたユダヤ教徒に限ると理解しますが、パウロはローマ書で、神の遣わされた御子イエス・キリストを信じる者に至ると述べますし、私たちもその主張を確かなものとして受け止めています。

 

 また、クリスマスの諸集会で引用される旧約聖書の一つはイザヤ書の9章です。苦しみという闇、辱め、死の陰、奴隷が受けるくびき、肩の杖、むち、戦いを強いられること。そうしたものが取り除かれる。これが神様の約束です。

 

 それはどうしてか。6節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。」からです。主権はそのみどりごの肩にあり、男の子の名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 

 これは神様の約束です。神の御子イエス・キリストの誕生を知る私たちにとっては、待たされることもなく、不安になることはない。しかし、キリスト誕生以前の人々は様々な苦しみの中、いつ実現するかわからず、待った。イザヤで言えば約700年。アダムで言えば約4000年。一方で、キリストの再臨を待つ教会は2000年、苦しみと闇の中で、神様の約束を頼りに待っています。神様はご真実ですし、同じ信仰の仲間がいることも感謝なことであります。

 

 

 私たちは初臨のキリストを待つのではなく、再臨のキリストを待つのですが、初臨があっての再臨です。イエス様が救い主としてお出で下さり、救いの御業をすでになされた故に感謝しましょう。聖書にある様々な約束。すでに受け取っているもの、やがて受け取るもの、思い巡らし、感謝し、神様を礼拝しましょう。



20241124日 主日礼拝 ヨハネの福音書515-30節「神の子イエス」

 

本日は伝道礼拝にようこそおいでくださいました。

 

 街では、すでにクリスマスのデコレーションをしているところもあります。ただ、サンタクロースやスノーマンが主人公ではありません。主人公はイエス・キリストですが、実は、救い主は、救われる人がいて、救い主となります。イエス様お一人では救い主とはならない。私や皆さんが、イエス・キリストの救いを味わってこそ、クリスマスを心から祝うことになります。

 

 西方教会の教会の暦では、1130日に一番近い日曜日から、待降節・アドベントが始まります。今年は121日、来週の日曜後からアドベントが始まります。アドベントは4週を経て、クリスマスとなりますが、日本では、25日は祝日とならないため、今年は22日の日曜日にクリスマス礼拝を持ちます。東方教会では毎年17日がキリストの降誕日となります。

 

 教会はいつでも一つですが、1053年に大シスマと言って、西方教会と東方教会が分裂しました。西方教会にはローマ。カトリックとそこから分離したプロテスタント教会、東方教会はギリシア正教やロシア正教などです。カトリックは普遍性を、正教会は正統性をその名前を通して主張しています。

 

双方が分裂したのは、三位一体の聖霊は父と子より発するのか、父より発するのかという神学論争が大きいですが、ここは何とも決め難い。そこを断定するところに無理があります。相互の交流が希薄となっていたこと、よって話し合いや協力がなされず、妥協しない神学者たちの対立があったためです。誰も妥協はしたくないと思いますが、いつでも交わりと一致は大切です。

 

 さて、今日の聖書箇所は、先週の続きのところです。「主イエスが神の子であると主張する」場面です。38年間病気であった男性を、主イエスは癒されましたが、その日がユダヤ教徒にとっては働いてはならない日にイエス様が癒したのが問題となりました。そして、ユダヤ人たちは主イエスを迫害するようになります。

 

 イエス様は17節で、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」と言います。つまり、天の父である神様は安息日も働いておられるので、自分も働くと。18節では、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」と理解し、なお一層、ユダヤ人はイエス様を殺そうとします。

 

 ユダヤ人は厳格です。厳格ゆえにゆとりがない。ゆとりがないので、自分たちの考えに添わないものを排除しようとします。

 

イエス様は19節から47節まで、長いことお話しになります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。」という表現は、イエス様が大切なことを話される時の言い方です。「いいですか。今から大切なことを話しますので、しっかり聞いてくださいよ」というのと同じです。

 

「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」とは、一般論を言うのではなく、イエス様の行動の方針のことです。ここは安息日でない日にも、安息日にも、必要なことをするということです。病人のいやしも含みます。それほど、神様はいつも活動し、イエス様も父を敬い、ならっています。

 

20節後半以下の「これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」とは、生命に関する働きになります。具体的には死人をよみがえらせることです。イエス様の十字架の死とよみがえりと、主イエスを信じた者に与えられる永遠のいのちも指すことになります。

 

 物事を裁くのは神様であるという認識をユダヤ人は持っていました。それに関して、イエス様は、22節「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」と言います。父と同じ権能をイエス様が持っていること。救い主としてのイエス様を信じた者には救いを、信じない者には裁きをというのが基準です。

 

 クリスチャンはこのことを信じているのですが、クリスチャンでなければ、主イエスに対して「この男は何を言っているのか。」と思うでしょう。しかし、例えば、マタイの福音書の最後、2818節で、主イエスは「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」とある事からも、主イエスの権威が父から与えられていることを教えます。

 

24節も「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と言い、よく聞くように求めます。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」25節も「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と言い、「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」罪によって、霊的に死んでいるが、この主イエスのことばを信じる者は罪が赦され、永遠の命に移ります。

 

26節、27節は天におられる父と、地上に来られた子の一体性を言います。遣わされた者は遣わした者の権能を持ちます。28節の「墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来る」とは、最後の審判のことを言います。29節の善と悪は、人によって、基準が違います。人を愛すことだとか、親切を行うことが善で、人を殺したり、憎むことが悪だと人は考えます。しかし、造り主である神様を愛さない、無視することは、悪にあたらないのか。父なる神の遣わしたイエス・キリストを信じることが善にならないのか。神様の基準での善と悪は、救い主キリストを信じることが善で、神様を無視することが悪です。

 

 これはイエス様の好き嫌いの感情ではなく、主イエスを遣わされた神様のみこころです。この、イエス・キリストを救い主として、信じ受け入れることをお勧めします。

 

 



20241117日 主日礼拝 ヨハネの福音書51-15節「良くなりたいか」

 

 1節に「ユダヤ人の祭り」とあり、脚注に、213節「ユダヤ人の過越しの祭り」、64節「ユダヤ人の祭りである過越」とあります。脚注は聖書理解に、とても参考になりますが、網羅しているわけではありません。ヨハネの福音書で言えば、9箇所に記載されていて、ここから、イエス様の公生涯は3年ないし3年半と言われます。(223節、1155節、121節、131節、182839節、1914)

 

 ヨハネの福音書では7つのしるしが記されています。水をぶどう酒に変えたのが初めのしるし、2つ目は王室の役人の息子のいやし、今回はベテスダの池でのいやしで3つ目のしるしとなります。もちろん、イエス様はいろいろないやし、奇跡を行なっていますが、ヨハネは共観福音書に記されていないものを6つ取り上げ、5000人の給食は4つの福音書に記されています。もちろん、3つの福音書に記されていることであっても、5000人の給食は大切な記事でした。当然、十字架での贖いの死とよみがえりも大切です。

 

 2節には羊の門も出てきます。他で言うとネヘミヤ記に書かれています。エルサレムは神殿を中心に東西南北に城壁があり、北の城壁の東側に羊の門があり、近くにベテサダ(オリーブの家)、別名ベテスダ(あわれみの家)がありました。ヘロデ大王が男性と女性の巡礼者の沐浴用に、造ったものであると言われます。北の池は東西で52m、南北で40mあります。南の池は東西で64m、南北で47mあります。5つの回廊の回廊とは宮殿などで、建物・庭などの周囲をとりまいている長く折れ曲がった廊下です。水深はともかく、水泳の国際大会で使う長水路は長さは50m、幅は25m以上とのこと。つまり、各池はほぼプール2個分です。

 

 3節、この回廊に、「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」新改訳聖書2017では、3節後半と4節を欠いています。それは古い聖書の写本には記されていないからです。ただし、新しい写本の一部には、病気の人たちが回廊にいる理由が書かれています。古いものはパピルスで言えば2世紀、新しいもので8世紀、本になったもので古いものは4世紀、新しいものは5世紀。聖書の場合、断然、より古いものが重要・大切です。

 

 聖書を書き写す写字生が、親切心から、読者にわかり良いように解説する。しかし、それは本来聖書としては記されていないので、良くないこととなります。7節から推測できるのですが、当時の状況を十分わからない者としては参考になります。ヘロデ大王が造った沐浴のための池に、病人がいる。それは、脚注にある通り「彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」ということでした。間欠泉であったようです。

 

 5節、「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。」どんな病気は何か記されていません。イエス様は彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」普通の答えは「もちろんです。」とか、「当然ですよ。そのために、毎日ここに来て、ずっと待っているのですから」というと思います。しかし、病人の答えは、「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答える。つまり、彼は、「いつも出遅れちゃうんですよ」と言いたい。誰かが助けて、池に入れてくれると良いのにと願望を示します。イエス様の質問は「良くなりたいか」で、彼の答えは「行きかけると、他の人が先に下りていきます」と言います。噛み合っておりません。時に、イエス様が次元の違う話をされることもありますが、今回はこの病人がずれていました。イエス様が病気を癒してくださるとも思っていません。しかし、8節、イエス様は彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。イエス様は38年病の中にいたこの男性を癒されました。

 

 問題は、その日が安息日であったということ。もちろん、イエス様にとって、病気の人を癒したのが、安息日であることはご存知でしたし、そのことを問題としてはいない。しかし、安息日には働いてはいけないと考えるユダヤ人たちには大問題だった。ユダヤ人は癒されたこと自体を問題視していないが、床を取り上げることを問題にしています。イエス様が「床を取り上げて」とおっしゃっている。「起き上がりなさい」とだけいうと良かったのか。やはり、ユダヤ人の視点が人間愛に基づかず、律法的になっています。

 

 イエス様はご自分が誰であるかも告げず癒され、騒ぎが起きたところで、立ち去られる。安息日に活動することに関してはヨハネでは914節、目の見えない人の目が見えるようにしたのも安息日でした。イエス様は、安息日に良いことをすることは何ら悪くないとおっしゃっています。またユダヤ人も安息日に割礼を行う。それを根拠に723節では「全身を健やかにする」ということで、主イエスに腹を立てるのですかと問います。

 

 ユダヤ人にとっては、安息日を守る。それは仕事をしないこと。割礼を受ける。それは神様との契約を守ること。つまり、外見的というか、周りの人に、自分は正しいということを証しすることために重要なことでした。また、他の人を外見的に評価することのできる手段ともなっていました。それは容易に形式的、表面的になりやすい。信仰が外面に出ることは当然あることで、否定しませんが、信仰の良い面が内面の中に秘められ、留められることもあります。

 

 38年病気で苦しんでいる人がいても、ユダヤ人の誰一人も、この人ともにいて、水が動いた時、池に入れてあげる人はいなかった。その人のために、元気な人が、長い時間、彼に付き添うということも、現実的ではない。毎日、主の使いが来たわけでもない。だけど、彼が癒されても、誰も喜ぶ者はいない。むしろ、この人を癒したのは誰かと犯人探しをしている。

 

 6節に戻りますが、即答せず、なぜ主イエスは「良くなりたいか」と問うのか、考えても良かったでしょうし、事情を説明せず、率直に「はい」と答えても良かった。私たちの中にも、遠慮とか、気遣いがあって、ストレートに答えない、答えられないこともあるでしょう。人の中にある罪が、物事を歪めたり、素直でいられない社会・文化を形成します。しかし、人に罪がある事をご存知で、その罪を取り除くことがイエス様の使命ですので、私たちは隠すことはない。繕うことはない。

 

 

 すべての病がその人の罪の故ではないことは9章からも確かですが、14節、主イエスは宮で彼を見つけ「もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」と言います。彼は肉体的にも、宗教的・律法的にというか、主イエスによって良くなっています。15節、彼は、自分を治してくれたのはイエスだと、わざわざユダヤ人のところに行って、伝えた。彼の中に変化が見られます。



20241110日 ファミリー礼拝&子ども祝福式 ルカの福音書932-36

「神の子イエス様の栄光」

 

 皆さんはすごい人、偉い人に会ったことがありますか。どんな人ですか。

 

 私は、会ったと言えば、小学校や中学校の校長先生、会社の社長さん、遠くから見たといえば、総理大臣や大臣やスポーツ選手です。本当はすごい人なのに、こちらがわからないこともあります。

 

 イエス様は本当にすごいお方で、本当に偉いお方ですが、人によっては、わからないこともあります。

 

 モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出したあと、神様とお会いしました。石に記した十戒を2回目に受け取った時のことでした。出エジプト記の3429節に「彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」とあります。神様の栄光がモーセに現わされていました。栄光とは、輝きのことです。神様がすごく、モーセにもそのすごさが与えられました。

 

 実は、新約聖書でなされることは、旧約聖書でなされたことに深くつながっています。旧約聖書では、モーセが神様とお会いし、ルカの9章では、イエス様が3人の弟子を連れて、祈るために山に登られた。29節では「祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。」とあります。火をつけたのでもなく、スポットライトを当てられたのでもなく、父なる神様に祈られ、イエス様は輝かれた。イエス様の素晴らしさが現わされています。

 

 ペテロたちは、イエス様が祈っているといつも眠くなるようですが、32節、「はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。」イエス様と一緒にいるのが、モーセとエリヤです。旧約聖書のことを「律法と預言者」という言い方がありますが、モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表します。ペテロが、これはすごいことだと思って、天幕を三つ造りましょうとか言っている時、雲がわき起こって彼らをおおい、ペテロたちは恐ろしくなった。すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」とあり、この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。父なる神様が、ペテロたちに、イエス様の言うことを聞きなさいと言われました。

 

 皆さんはイエス様の言うことを聞きますか。聖書に書かれていることに従いますか。そうすると山にいたモーセやイエス様のように、私たちも神様の栄光の輝きを受けることになります。

 

 

 ピリピ321節、今年のCS合同サマーキャンプのテーマ聖句でしたが、「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」とあります。だから、イエス様を信じて従っている人々は、神様の栄光を表す人になります。罪ある卑しいものが、イエス様の十字架の贖いによって、新しいものとされ、罪ない者と見なされていることを神様に感謝します。



2024113日 主日礼拝 ルカの福音書533-39節「新しい皮袋に」

 

 人体に関わらず、どんな生命体にもエネルギーが必要であり、生物だけではなく、活動するものはすべて、何らかのエネルギーを必要とします。新改訳聖書2017で「断食」ということばは57の節に出てきますが、最初は士師記2026節で、イスラエルの民が、処罰のためにベニヤミン族と戦い、処罰する方が再び敗北するというものでした。ここでの断食は主のみこころが現わされるようにとの礼拝を込めたものでした。他には悔い改めのしるしとして、サウルの死に対して追悼、ダビデとバテシェバとの間の子の回復のため、アハブの妻イゼベルがナボテの裁判の時に布告した断食、モアブ人とアンモン人に囲まれたユダの王ヨシゃファテが、戦勝祈願のために国民に求めた断食、エズラ、ネヘミヤが悔い改めとエルサレムの回復のために人々に求めた断食、エステルも決死の覚悟で王の前に出るとき、自らと周りやユダヤ民族に求めた執り成しの断食、他にも詩篇では病気のいやしのため、イザヤ書、エレミヤ書にはへりくだりを表す断食もありますし、イエス様は公生涯を開始される前に40日間の断食をされていますし、断食と言う用語ではありませんが、エリヤやパウロなど食を絶つ期間がありました。新約時代は、宣教師を派遣する前や長老就任の際、断食と按手がありました。レビ記1631節や2332節に「あなたがたは自分の身を戒める」は断食を意図しているとのこと。敬虔なユダヤ人は月曜日と木曜日に断食するとのこと。

 

 さて、マタイとマルコでは、真面目なバプテスマのヨハネの弟子たちは、パリサイ人やイエス様ご自身の断食は感じ取っていたのでしょう。ルカによるとヨハネの弟子たちも断食しています。しかし、なぜ、主イエスの弟子たちは断食しないのかという疑問がありました。主の回答は、「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。」というものでした。祝いの時、喜びの時には、断食はしない。ここで、主イエスを花婿、弟子たちを花婿に付き添う友人たちと表現しています。そして、「花婿が取り去られる日」とは、イエス様が十字架の死を受けられる日を意味しています。主イエスは断食そのものを否定してはいませんが、山上の垂訓で、断食をする際の注意事項を述べています。マタイの福音書6章の16-18節の抜粋ですが、「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。・・・断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」と語ります。なので、主の弟子たちは、イエス様の昇天後、断食していても、そのことを人には見せないように心がけたと思われます。また、第三版までは脚注ではなく、本文にカッコ書きで、たとえばマタイ17:21 〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕というものがありますが、後代の書き込みであると判明しているため、2017は脚注としています。

 

 さて、断食の後、衣の継ぎ当てと、新しい皮袋の話が続きます。常識的に言って、古い衣の継ぎのために、真新しい布切れを当てると、新しい方が洗濯すると縮むのでので、古い方の破れがひどくなります。ルカは単に新しい布切れではなく、新しい衣の布切れとしています。そうすることは本当に愚かです。もちろん、継ぎ当てがだめだというのではありません。ものを大事にすることはSDGsの観点からも大切なことです。では、なぜイエス様は衣と皮袋の話をされたのか。実はその当時のユダヤ教とイエス様による新しい教えの違いを語ります。従来のユダヤ教的な教えに、イエス様の教えを加えると、ユダヤ教を裂くことになってします。ユダヤ教の皮袋にキリスト教と言う教えを入れると裂いてしまう。だから、古い教えのユダヤ教はそのままに、キリスト教は新しい皮袋に入れるということ。原料は布にしても、ぶどう酒にしても、皮袋にしても、成分は同じ。しかし、新しいか古いかによって、性質は違う。新しい布は変化に対応でき、新しいぶどう酒は発酵が強いので、強度のある皮袋でなければならない。逆に、古いぶどう酒は芳醇でよいと語り対立を避けています。

 

 勘違いして言われるのは、キリスト教会内の世代の違いを、新しいぶどう酒は新しい皮袋にという。世代間には確かに、考え方、生き方、価値観が違うことはあります。しかし、キリストにある者はキリストにあってみんな一つ。その広がり、豊かさはあっても、一つであり、教会を世代に合わせて分割する必要はない。

 

 若い人は体力があり、発想力がある。年配者は様々な経験があります。これをばらばらにするのではなく、生かし合うことができたら、素晴らしいことになる。それは、神様が私たちに求めておられることでもあります。人体も部位によって新陳代謝のスピードが違います。(胃腸は約5日間、心臓は約22日間、肌は約28日間、筋肉や肝臓は2ヶ月、骨は3ヶ月とのこと。)

 

 私たちの生活のスタイルをそのままにして、ここに神様、イエス様、聖霊に入っていただくと、その外側である私たちに、破れとか、ほころびが生じるということでしょうか。パウロは「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と語ります。私たちの外側は、脱皮するように、外側の更新を必要とするのか。いや、キリストが私たち一人一人をおおってくださるので、外側も、すでに新しい皮袋であり、内側も神の霊を持つ。これは自分がなくなってしまったのではなく、自分は神様の霊によって変えられている。人にもよるでしょうが、信じた当初変化が多い者、ゆっくりしたペースでキリストのように形成されている者、いろいろな形があるわけですが、みなキリストにあって新しくされている。キリストに似るという変化は他の宗教では決して生じえないのです。

 

 

 よく「キリスト教の二重性」と言いますが、ある場合は「すでにとやがて」で言い表されますが、ここでは、私たちはキリストと言う新しい皮袋に入れられた。そして、私たちと言う皮袋にキリストと言う新しいぶどう酒が入れられました。それは総じて素晴らしいことであり、感謝なことです。



2024106日 宣教協力月間 主日礼拝 エズラ記 11-4節「宣教協力」

 

 聖書を読んでいると、主がいろいろなことを教え、私たちを主のみ旨に導き、主の幸いな働きに関わらせていただけます。

 

 イスラエルにサウル、ダビデ、ソロモンと続く王国があり、ソロモンの子レハブアムの時、税金をもっと軽くしてくださいという国民の願いを無視したため、ヤロブアムに率いられ、北の10部族が離別しました。南王国はユダとベニヤミンの2部族だけとなりました。ダビデがイスラエルの王として40年、ソロモンも40年治め、紀元前931年に南北に分裂し、北は偶像礼拝を主な理由として、約300年後の紀元前722年、アッシリアに滅ぼされます。南ユダはダビデの家系を継ぎつつも、やはり、偶像礼拝、不信仰で、紀元前586年に、バビロンに捕囚されます。

 

 預言者エレミヤは、エレミヤ書の2511-12節や2910節で、捕囚の期間が70年であることを告げていますが、人々はエレミヤを通して語られた主のことばをしっかり受け止めていたでしょうか。なかなか受け止められていませんでした。老齢の人は、「どうせ自分はもう生きていない」と考え、子どもたちは将来のことを語られても全体がよくわからず、若い人は、「神の民が、敵に支配されるなんかはない」と考えたでしょう。しかし、確実に神様のおっしゃた通りになります。

 

 聖書の年代は、タビデを起点に、だれが、何年、国を治めたか年数が記されているので、単純に計算できます。ただ、起点や在位期間がぴったり年単位ではないので、多少の誤差が生じます。エレミヤ25章にある、ヨシヤの子エホヤキムの第4年は紀元前605年です。エルサレム陥落まで、約20年ですが、ダニエル書を見ると、実は、その前年に、バビロンの王、ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、王と宝物と、ダニエルはじめ、有能な人材を第一回捕囚として連れ帰り、597年はエホヤキン王が連れていかれ、586年、582年と全部で4回の捕囚を行なっています。

 

 歴代誌第二の後にエズラ記が続きますが、歴代誌の最後の2節とエズラ記の冒頭の3節までが、ほぼ同じです。厳密に見ると、歴代誌の「その神、主がともにいてくださるように。そのものは登っていくようにせよ。」とエズラ記の「その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。」とは違います。

 

 ユダの民はバビロンに捕囚されているのに、ペルシャの王キュロスが突然、登場します。キュロスは前の版ではクロスでした。バビロニアのネブカデネザルは紀元前605年から562年まで帝国を治めますが死去し、ペルシャの王となったキュロスが、征服計画を練り、紀元前539年に征服したから、ペルシャが出てきます。

 

 ユダがバビロンに捕囚されたというのは、神様の計画のうちにありました。しかし、侵略して、後に返還するというのは、イギリスが香港を99年後中国に返還した例はありますが、一般的ではありません。しかし、キュロスは寛容な政策をもって、広く世界を支配しようとしました。それで、ユダの地に帰還を希望する者がいればそれを認めました。

 

 神様はユダヤ人だけを自らのために用いるのではなく、異教徒、異邦人をもご自身のために用いられます。そして、廃墟となったエルサレムにある神の宮を再建ために用います。

 

 とても不思議ですが、キュロスは神様のことばを聞いているのか。エレミヤ書を読んで活動しているのか。「天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。」となぜ確信できるのか。でも、「主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。」なぜか。それは、ご自身が、エレミヤによって告げられたご自身のことばが成就するためにでした。神様はすごいお方です。私たちの信じる神様はこのようなお方です。

 

 4節は、誰に向けられて語られているのか。ユダの民にです。あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。前後しますが3節「あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。」と言う。キュロスは預言者の働きをも担っているようです。そして、ユダヤ人と言いましたが、唯一の神に信仰を持つ者もいたならば、その者も含まれることになります。

 

 「その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。」と。私たちは遠いことを理由に、その働きに参与しない口実とすることがあります。しかし、神様はその人がどこにいても関わることをお求めになります。エルサレムに行って神殿を再建しようとしている人のために、「銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。」と。かつて神殿にあった金銀は持ち運ばれてしまいました。だから、神殿を整えるためにもそうしたものが必要なのですが、そうした再建の働きをする人を支えるための「銀、金、財貨、家畜」も必要なのです。旅費も食費も必要になります。

 

 さて、エズラ記と宣教協力は別のことでしょうか。実は、宣教は、神の国の再建のための働きということができます。罪によって神様から離ればなれになった人を、イエス・キリストの福音によって神様との関係の回復をもたらす。それが宣教です。そのために、文書が配られたり、映画があったり、バザーがあったり、ゴルフがあったりする。私たちの中には、神様から与えられ、神様のために用いることのできる賜物に、気づかないまま、まだまだ、用いていないものもあるのかもしれません。

 

 ペルシャに連れていかれた信仰者たちは、自分の信仰を保つことには必死だった者もいます。置かれたところで、精一杯働いていたものも大勢います。しかし、もっと広い視野、つまり、神様があなたを用いて何をしようとされているか、私たちへの神様の期待を忘れて、今日の営みをつつがなく行っているつもりで、神様が待っておられることはあるのだと思います。だから、キュロスが用いられたりもします。

 

 

 10月は、年に1カ月だけの宣教協力月間ですが、この一カ月だけ熱心になると良いのではなく、この一カ月は宣教の総点検の一カ月で、再スタートのための一カ月であることを思います。報告していない活動は何倍も何十倍もあります。すべてを網羅できません。しかしまた、どれか一つでも、心を込めて活動したり、支援できると幸いです。



2024929日 召天者記念礼拝 ヨハネの黙示録 211-4節「神とともにいる」

 

 本日は召天者記念伝道礼拝です。

 

 黙示録211-4節にはないものがいくつか書かれています。新しい天と新しい地には海はない。そして、死と悲しみと叫びと苦しみがない。涙についてはことごとくぬぐい取ってくださるとあります。今月の15日の礼拝後、2階で伝道チームの話し合いが持たれました。バザーの打ち合わせでした。2時から5時まででした。どういう状況であったか、疲れもあったかもしれません。誰に対して発したか。この言葉を聞いて反応する人に向かって、私が「この訳あり女」と発した。すると、私に向かって「十円玉男」と応答があり、私が「何よこのー」とまた発しました。

 

 これは喧嘩ではなく、その場をリラックスさせるやり取りでした。かつてA兄が教会の祈祷会や伝道の話し合いをしている時、姉妹方とのやり取りで、大笑いして、和気あいあい楽しんでいる時のことを思い出させてくれました。

 

 正直、コロナ以降で、教会で一番笑ったときとなりましたが、コロナ前の、A兄がいた時、いや、私が牧師になって以来、一番大笑いしたのが光の子でした。笑い涙と言うのか、もちろん、ぬぐい取るのは自分で、ぬぐい取っていただけるのは天に行ってからとなります。また、B兄も初めは礼拝に来て、帰るだけでしたが、信仰に至り、教会でも、にこにこで、楽しいことを言っておられました。そしてC兄もぼそっと面白いことを言っていました。笑顔を思い出します。

 

 教会と笑いが結びつかない方もいるかもしれません。本当に笑えない教会も世の中にはあるのかもしれもせん。しかし、教会が天国の素晴らしさを事前に味わうところだとすると、笑いがあって当然だと思います。アブラハムの妻サラが笑って神様にたしなめられたのは、笑ったことではなく、神様でも年老いた私を身ごもらせることができないと決めつけた不信仰に対してでした。しかし、ここを読み誤ると、信仰者が笑うことを禁じられていると理解してしまいます。

 

 さて、死とはある面で、離別であり、悲しみであるのは当然です。しかし、神の国に入るという意味で、死は新しい命への入り口でもあり、苦しみと悲しみからの解放であり、変わらない世界、いや神様の愛と恵みにみちた世界への到達であります。

 

 ただし、「それでは、早速その世界に入ろう」としてはならない。すべてに時がある。つまり神様の計画。福音が世界に伝えられることもそうですし、私たちの霊的成長もそうです。多くの人が窮地に陥った時、自らの死を考えることが選択肢の一つとして持つことがあるのでしょう。しかし、天を慕って、次々に自死する人を止めるために、カトリックは自殺者の葬儀を行わないことと、自分を殺すことも殺人であり、しかも悔い改めることができないので、天国に入れないと定めました。

 

 プロテスタントは自殺を容認することはありませんが、病気の可能性を否定しません。それよりも、肉体をもって生まれ出るのはそれぞれ1回のみ。しかも、神様の計画と目的があるので、それを全うするように励まします。

 

 さて、神の国は実に幸いなところだと信じます。ますは罪がない。だから、争いはない。そして、賑やかなところが好きな人と、静かなところが好きな人がいるので、それぞれに居心地のいいところだと思います。それ以上は皆さんにみことばに基づき思い浮かべていただくと良いと思いますが、スヌーピーの漫画にあるように、永遠だからと言って退屈な訳はないと思います。その証拠に、聖書には笑わせる箇所があります。ここも探してみてください。

 

 さて、天国の風景で言うと、先週の聖書の学びと祈り会で詩篇82篇を見ましたが、1節に「神の会議」とあり、一晩そのことを思い巡らせた姉妹が木曜日の聖書を読む会の始まる前に、ヨブ記にも16節「ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。」ってあるんですよねと。そうそう。そして、列王記22章にも、主に従わないアハブを倒すために、天でのやり取りが記されています。

 

 イエス様が天に戻られてから、通常は、父の右に座しているのですが、使徒の7章、ステパノが反対者たちとやり取りしている時、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見たとありますが、イエス様はステパノを声援していると見ますが、お立ちになる。つまり、いつもくつろいでお過ごしになるのではなく、私たちに関心を持ち、私たちを助け導かれる。やがて、悪魔を打ち砕かれると、天での会議とか、緊迫状態はなくなり、天に迎えられた者と神様の交流がなされる。それは礼拝であったり、食事であったりする。

 

 招きのことばでお読みいただきヨハネの福音書14章は、地上におられた主イエスが間もなく、天に上り、そこでなすことを語られています。私たちのために、十分な住まいを確保されること。地球上のすべての造られた人が入るにも十分です。奪い合うことはない。私は御国に入るのはだめかもしれないということもない。

 

 

 交読文のテサロニケ人への手紙第一4章は主イエスの再臨とそれまでの歩みについて書かれています。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」と語り、主の再臨は「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」と。召天者記念礼拝も互いに励ますことを趣旨としています。そして、「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」と、やがて、主の再臨、私たちの携挙、新しい地での歩みとなります。



2024922日 伝道礼拝 ルカの福音書 158-10節「捜索・救出」

 

 本日は伝道礼拝にようこそおいでくださいました。伝道礼拝とは、まだ、イエス・キリストをご自分の救い主として信じていない方に向けたメッセージをする礼拝のことを言います。ずっと以前は、信者とか、聖書、神様、救いに関心を持つ方を中心にした礼拝でしたが、信者であっても、信者なくても、一緒に聖書に書かれていることを聞こうというものです。

 

 さて、皆さんは、それぞれ大切なものをお持ちだと思います。家や車であったり、服や装飾品、本や写真やレコードやおもちゃ、いろいろだと思います。大切だから、箱や金庫に入れているものもあれば、取り出して触る時、持ち主である自分も白い手袋をはめるということもあるかもしれません。その人にとって、何が大切かは、相対評価によりません。そのものが高価なものだから大切で、安物だから大切ではないということはない。

 

 私は、小学生の頃、男の子も女の子も上級生も下級生も近所の仲間と、かくれんぼしたり、缶蹴りをしたり、よく楽しく遊んでいました。遊び場は近くのホテルの駐車場です。球技は、700-800メートル歩いたところにある、山の上の小学校のグランドで行っていましたが、ホテルの駐車場で友達とすることがあり、投げた方が下手だったのか、受ける方が下手だったのか、ホテルの横のがけ下り、川に落ちることがありました。でも、何とか、拾いました。取り戻した時、うれしかったし、安堵しました。しかし、拾えないときもありました。それでも、ボールはいくつも持っていました。

 

 ある時、ホテルの駐車場で、サッカーボールを使って、パスをして遊んでいました。蹴った方が下手だったか、受ける方が下手だったか、そんなところでパスをするのが愚かですが、がけを下って川に落ちてしまい、流れに乗って流れていきました。追跡するも、川べりに人の通れない突き出したがけがあって追跡できない。川に入ると靴や服を汚す。滝と言うほどでもないけど、子どもにとっても、大人にとってもそこを降りると這いあがれない感じで、追跡を諦めました。

 

 当時の野球のボールは1100円ぐらいだったと思います。サッカーボールは唯一それのみで、3000円だったと記憶しています。もう50年ぐらい前の話です。その時は、残念と言うか、悔しいというか、もったいないという思いが強かったと思います。そもそも川の近くで遊ぶのは、学校のグランドと違って、ボールを失うリスクがありました。しかし、帰宅後、10-15分かけてまた小学校に行くのも面倒だったのだと思います。今大人として考えれば、怪我をしたり、いのちを失うという危険を回避できて良かったと思います。というのも、長年、JECA北海道地区所有の望来キャンプ場で小学生キャンプ、中学生キャンプ、高校生キャンプがそれぞれ23日で行われていましたが、牧師になった年、中学生キャンプを担当し、その中学生キャンプが終わって、入れ替わりに高校生キャンプが始まる時、海岸に北海道警察のヘリコプターが飛来し、誰かを捜索していました。あとでわかったことですが、彼らは別のグループの高校生で、離岸流がある、遊泳禁止地区にいたとのこと。それは、夏休みで羽目を外して、飲酒していたからであり、酔ったままおぼれてしまったとのことでした。本当に痛ましい事故でした。要救助者を発見しても、亡くなっていたら、みんな悲しいものです。

 

さて、聖書では、神様が天地と、そこにあるすべてのものを造られたとあります。私たち人間も含みます。しかし、人間は、神様の戒めをやぶり、罪を犯します。神様に背くと言います。善悪の知識の木から取って食べるとあなたは死ぬという警告を無視した。だから、神様にとって大切な存在なのに、失われてしまうことになりました。

 

 従うのも背くのも、それぞれの人間の意志が尊重されています。これが神様の愛とも自由とも言えます。しかし、神様に背くと、神様の愛が受けられず、本当の自由を享受できない。

 

 神様と悪魔との戦いと言うのではなく、圧倒的に神様が強いのですが、神様は強引に人を引き戻すのではなく、神様から離れることの恐ろしさを実感するまで、人を放置される。しかし、マタイの福音書7章で言えば、「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」とあります。物だけではなく、救いに関して、求める者を見逃さない。放置されない。

 

テモテへの手紙第一 2章では「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」と語り、「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。」とあります。救いの方法はいろいろあると考える人もいますが、聖書は唯一であり、イエス・キリストを通してであると語ります。

 

 ルカの15章は失われた羊、失われた銀貨、失われた息子の3例を記しています。私たちは羊は飼っていない。今は銀貨は使わないし、通貨は段々電子マネーになっていく。でも、自分に大切なものを失ったら、とことん探すのではないでしょうか。役員研修会で講師の先生は駐車券をなくし、1600円か1000円のところ、規程に従って7,000円支払ったとのこと。ものを無くさないための授業料と考えたとのこと。そして、その後駐車券をなくさないように財布に入れることに。

 

 探す時の秘訣は、はじめに神様に祈ること。見つけたら神様に感謝すること。私は、サッカーボールを失ったとき、まだ神様も祈ることも知らなかった。神様は、私たちの救いのために、御子主イエスのことを、どうなっても良いと思ったのではない。そして、失われている私たちがどうなってもいいとは思われていない。私たちを救出しようと犠牲を払われている。本当に感謝です。そして神様は懸命です。

 

 皆さんも、買い替えのきくものであれば、失っても、新しいものが手に入るのでむしろ良いと思うかもしれませんが、買えても、古くても、愛着があれば、かばんでも、財布でもそう安々と代わりにできない。思い出も詰まっている。ものではなく、人はどうか。親や子どもなど、代わりはいない。地上に80億の人がいようと、神様が思いを込めてお造りになった人間。こっちがいるから、あっちは良いわと、同じ規格のボールのようにはいかない。

 

 

 一人一人が神様にとってかえがえのない存在、大切で、特別な存在で、失われたままではいけない存在です。人間から見ると、どんなに捜索に時間がかかろうと、どんなに救出が困難であろうと、神様はすでに私たちがどこにいるかご存知で、助け出す確かな方法もお持ちです。あとは、こちらから神様に、「私はここです。罪の支配から助けてください」と言うと良いのです。そして、「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」



2024915日 主日礼拝 コリント人への手紙第二 96-11節「献金」

 

 礼拝、献金、奉仕とは、神様に愛していただいている、救っていただいている感謝のしるしです。これが逆に、神様に愛されるために、救っていただくために礼拝、献金、奉仕をするとすると、これは大変なものです。

 

 教会は開拓期、成長期、安定期、場合によっては衰退期があります。開拓者が一般の仕事をしながら、伝道する場合もあれば、母教会、支援教会、団体などから祈りと経済的支援を受けながら教会が形成されていく。そして、やがて自立・自給する。口では簡単に言いましたが、自立するのは大変です。それでも、もし支援がなければ、今ある日本の多くの教会は存在していなかったかもしれません。しかし、主の愛と憐みによって教会は存在しています。また、救われた者の礼拝、献金、奉仕によって営みが続けられていきます。当然ですが、心から感謝して礼拝、献金、奉仕することに至らなければ、その後の成長も安定もなく、存続できなくなります。しかし、聖書で求めていることに忠実であれば、教会を生み出す教会となります。

 

 エジプトの圧政から解放され、カナンの地に定住することを控えたイスラエルの民は、モーセのお別れメッセージを聞きます。その一部として申命記810-18節には「あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。あなたは心のうちで、『私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。」とあります。この真理は今も変わりません。神様の恵みを忘れた富は放漫と傲慢を生みます。

 

 私たちの救われたときの感動は、イエス様ご自身を私たちの救いのために差し出されたイエス様のために、すべてを差し出します、と告白していた。神様は私たちを造られたばかりか、罪によって失われていた私たちを、放っておくことなく、贖ってくださったからです。私たち自身が主のものであれば、時間も財産も一部ではなく、すべては神様のものです。神様は捧げものが欲しいのではなく、私たちの喜んで神様にお仕えする心を求めておられます。

 

 「十分の一」という言葉は新改訳聖書2017に、56回出てきますが最初は、アブラムがロトを4人の王たちから救出した後、アブラムを祝福したサレムの王メルキゼデクにささげています。ヤコブは殺意を抱いたエサウから逃げますが、ベテルで神様に、無事に戻れましたらすべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます、と約束します。その後、旧約聖書も新約聖書でも持ち物の十分の一がささげものの基準となります。それは収入の十分の一も示します。ある牧師が、ささげても痛くも痒くもないささげものをどう思いますかと問うていました。ささげ物は、すべては神様から与えられているものであるという信仰の告白です。

 

 そういう意味でも、与えられたらまず取り分ける。もし、余ったものをささげようと思うと、実際に余るものはほぼないのではないかと思います。私たちはある目的のために懸命に貯金をする。では献金は懸命か。クリスチャンハンドブックでは金銭管理について記してあります。収入の十分の一を月定献金としてささげ、礼拝では席上献金、また、記念日などに感謝献金、何かの時に特別献金。すべて神様への感謝から発しているささげ物であれば幸いです。

 

 私は牧師になる前、母教会の会計を担当したことがあります。代表者は宣教師なので、謝儀を差し上げる必要はなく、中古の店舗を会堂として購入しましたが、順調に返済が完了しました。今は明日の役員研修会の準備委員として、会計も担当していますが、予算に対し、昨年は残金がありました。今年は参加者が増え、超過が見込まれます。このことについて、同じ準備委員と相談し、地区運営委員長と会計担当者に相談し、予備費で対応してくださることになりましたが、その時々によると思いますが、家庭においても、また各教会においても、やりくりにご苦労される会計担当者のために祈りも必要です。

 

 神様から豊かな恵みと救いをいただきつつも、大人になってから、献身とか献金に全くためらいがないというとウソになります。クリスチャンホームの子は、献金直前や礼拝前に親からお金を渡されており、それをただ献金袋に入れるのは喜びはあっても、ためらいはない。しかし、子どもでも大人でも、そのお金の価値を知るとためらいが生じ、みことばに従おうとすると苦闘が生じる。これがあったらコンサートに行けるとか、月々の車や家のローンに当たられると。しかし、捧げようとしているものが十分の一ならば、その10倍を主は与えてくださっている。自分が稼いでいると考えると、神様は何もしてくださっていないということになります。

 

 ダビデは人口調査の罪の故、裁きを受けました。人の手には陥りたくないと言って、疫病を選びました。罪のない国民が次々に倒れます。しかし、3日目に、さばきは止まります。そして、主に祭壇を築きます。その土地所有者アラウナは喜んで王様に献上しますという。しかし、ダビデは、主にささげ物をするのに、費用もかけずに済ますということを嫌います。ダビデの個人的な好き嫌いではなく、ささげものとはいかなるものかと、正しい在り方を示しています。

 

 パウロは第二コリント8章で自分の働きを告げ、9章ではアカイア地方のコリントにいる信者のことを、マケドニア地方にいるテサロニケ、ベレア、ピリピの人に語ったことをコリントの信者に告げます。

 

 2017では祝福の贈り物とあります。それまでは贈り物と訳されていましたが、原典では「祝福」です。これは受け取った者に祝福となることは確かですが、実は送った者にも祝福となるものです。だからパウロは5節で「惜しみながらするのではなく」と語り、6節から言い換えて、「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。と教えます。そして、「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。」と語ります。

 

 

 しっかり信仰に立つキリスト者は、礼拝、献金、奉仕、伝道、交わりがバランスよく保たれていることを見ます。



202498日 主日礼拝 マルコの福音書213-17節「罪人と食事をする主イエス」

 

 マタイの福音書では収税所にいたのはマタイと記し、マルコとルカではレビと言います。聖書では名前としてはレビの方が有名です。当時のユダヤ人は2つの名を持っていたと指摘する者もいます。レビ族出身のマタイなのではないかと言われます。いずれにしても、取税人マタイは取税人レビと同一人物と見ていいと思います。

 

今私たちは税務署の職員や警察官を国民の敵とか、政府の犬とは思いませんが、当時、収税人は、ローマ帝国のために、ユダヤ人から税金を集めるので、ローマの犬、ユダヤ人の敵とみなされることもありました。

 

 イエス様が言われた「わたしについて来なさい」はどの福音書も同じです。そして、マタイはイエス様について行き、12弟子の一人になります。漁師であれば退職届を出さなくても、退職したことになると思いますが、取税人はどうか。こちらも、職場に行かなければ、自動的に退職と見なされると思います。漁師の場合はいつでも漁師に戻れるでしょうが、取税人の場合はどうか。ユダヤ人に嫌われる仕事なので、本人が復職を願えば、かなわないこともないと思います。取税人は、不当に住民から税をとっていたようですが、それがマタイ/レビにも当てはまるかは不明です。もしマタイも不当に税を取り立てていたとして、それでも主はマタイを召したのでしょうか。聖書から考えると、二つの可能性があります。一つは小さいことに忠実でないものは、大きなことに忠実ではありえないので、召されない。しかし、不正の富を用いて友を作りなさいともある。そして、イスカリオテのユダはイエス様一行の金庫番でしたが、そこから盗み取っていた。イエス様はそれを知っていた。ユダはイエス様を売るための役割があったのだから、そのために欠かせない人物であったとも言えます。結局、ユダは自害してしまいましたが、イエス様を売り渡した後でも、悔い改めることは可能であったでしょう。

 

 マタイに話を戻すと、彼は、決められた以上のものを住民から取り上げる人たちがいるが、そのことに苦しんでいたかもしれません。そして、イエス様に声をかけられ、素早く従ったともいえる。しかし、主イエス様はマタイのことをよくご存知です。そして、主イエス様は私たち一人一人のことをよくご存じです。

 

 場面が変わって、イエス様は食事の席にいます。私たちは収税所から食事の席に来たと思いますが、マタイの記事では、イエス様のいるところに、取税人たちや罪人たちが寄ってきます。罪人とは何か。パリサイ人たちからすると、律法を知らない人々、律法を守ろうとしない人々です。しかし、神様の前で、パリサイ人、律法学者、他、みんな罪人です。

 

 マタイでは、自分が自分の家にイエス様や仲間たちを招いたとははっきりさせない、曖昧な表記になっています。でも、原典で読むと、主イエスの家か、マタイの家かのいずれかであり、マタイによる福音書がマタイによるものを明確にします。マルコの記事では、「突撃!隣の晩御飯」ではありませんが、レビの家の食卓で、大勢の人も勝手についてきてしまいます。ルカの記事では、より明確に、レビが自宅で、イエス様のために盛大な食事会を開き、そこに仲間を招いています。おそらく、この記事がしっかり記されていると思います。目を留めてくださったイエス様への感謝もありましょう。そして仲間にイエス様を知ってもらいたい。いや、イエス様に仲間たちに会ってほしいと願ったのでしょう。

 

 パリサイ人たちは、招かれてはいない。彼らは、招かれても、自分たちが罪人と称する者たちとは、一緒に食事はしない。罪人の仲間と思われるのを嫌います。パリサイ人は、直接イエス様に不平は言わず、弟子たちに「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」という。軽蔑を込めていると思います。宗教界のリーダーとして歩んでいくならば、反社会的な人々との交流はあなたのためになりませんよと言う忠告も含むでしょう。しかし、そんなことも知らないのでは、やっていけませんよという思いもあるかもしれません。マルコを見るとパリサイ人に律法学者たちも加わっています。

 

 ルカには、取税人ザアカイの記事もありますが、ここはレビの話で、レビはすべてを捨てて主イエスに従う。それほどの喜びがあり、固い決意となっています。だから、自分の家で主イエスをもてなしたのだと言えます。そしてある注解者は、ルカの福音書では、レビはすべてを捨てたが、友は捨てなかったと。だから、職場の仲間であった取税人もいると。

 

 先ほどの軽蔑や忠告を込めた質問は、ルカでは「パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った」とあります。イエス様にも聞こえるような嫌みではなく、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」と。彼らにはイエスという人物が全く理解できない人物でした。それだけ硬直した物事の捉え方しかできない。イエス様のことばと行動は、父なる神のみこころを原点としている。それは罪人に対する愛と憐みです。弟子たちに向けた小声の文句を聞かれるイエス様の聴力はすごいと思います。しかし、声を聞くばかりでなく、前回は心の思いもご存知であることを見ました。イエス様は彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。」ここはよくわかる。もちろん、現代は予防のためにも医師は働いています。そして、核心ですが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」とおっしゃった。

 

 「義人はいない。一人もいない」と詩篇14篇の引用としてローマ書3章にありますが、すべての人の罪のために、イエス様は来られた。だから、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」とイエス様がおっしゃった。このとき、「なんだ正しい俺のためではないのか」と思ったパリサイ人、律法学者はいたか。いたと思います。

 

 でも、「罪を隠す自分のために来られたのか」と思ったパリサイ人、律法学者も、いたと思います。その人の職業や社会的地位は関係ない。自分の罪を認めることができたなら、救いに与れる。認めないならば、罪の中に留まる。

 

 マタイの福音書だけ、この、「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」を加えます。この言葉はマタイの中で、2度繰り返されます。ユダヤ人に向けて書かれたマタイの福音書。ユダヤ人は形だけ整っていればいいだろうと考える。しかし、みことばに立たせ、神様が喜ばれる生き方は何かを問います。神様にいけにえをささげていればいいのか。神様を心から愛することが神様に喜ばれることなのか。

 

 



202491日 主日礼拝 マルコの福音書21-12節「中風の人を癒す主イエス」

 

 皆さんは、担架で運ばれた経験はあるでしょうか。英語で言えばストレッチャーで、救急車や病院で使われているストレッチャーは、脚に4つの車輪がついているので、寝たまま人を移動させることができます。介護・福祉用ストレッチャーは寝たままシャワーができます。一方で、足元が悪かったり、上下の移動では、車輪付きのストレッチャーは使えず、背負うか、麻布の左右に棒のついた担架で運ばなければなりません。

 

1112年前に、朝起きて、心臓に痛みを覚え、119番に電話をしてもらって、担架で運ばれたことがありました。二階に住んでいて、階段が狭く、途中Lの字になっており、引越の時、冷蔵庫は縦のまま上げられたのですが、体重75キロの男を降ろすのは一苦労の様子でした。よっぽど、自分で階段を下りた方が、救急隊員にも、自分にも良かったかもしれません。JECAの全国運営会議があり、4泊しましたが、同室者があまりにも激しくいびきをかき、ほとんど眠れなかった。部屋を替えてもらうという手もあったが、これだけ眠れなかったので、今夜こそはぐっすり眠れると考えたのが誤りで、極度の睡眠不足となり、心臓に負担をかけてしまいました。 

 

 この中風の人のいやしの箇所も、ツァラアト同様、3つの福音書の中でマルコが一番記載量が多いです。マタイでは、ここを主イエスの「自分の町」と言いうので、ナザレより広い範囲で、カペナウムも含めているのかもしれません。マルコはカペナウムと明記し、ルカは特定していません。では、ルカは不要かというと、そうではなく、「イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。」とあり、ルカから得られる情報もあります。このパリサイ人たちと律法の教師たちは、主イエスの教えを聞きたいとか、病気を癒してもらいたいというものではなく、主イエスが何を教え、何をやっているか、見に来た。調査と言っても良いと思います。

 

 前回はツァラアトの人が、主イエスに癒してもらいたく、自ら御許に来ました。中風とは脳卒中や脳血栓など、脳血管障害のことで、半身不随になったり、言語障害があったりする。私たちは町で、松葉杖や車いすの人は見かけますが、家から出られない方のことはわからない。教会にストレッチャーで来られる方もいます。何度か教会に来る途中で、ストレッチャーに寝かせたお子さんを小学校に連れて行くお母さんを見たことがあります。毎朝連れて行くのは大変だと思います。ずっとお子さんに付き添っているのか不明ですが、お母さんの熱心、愛情を感じました。

 

 さて、この中風の人が、自ら、主イエスのことを聞いて、連れて行ってくれと言ったのか、主イエスが来ているから連れて行ってあげるわと周りの誰かが言ったのか、細かい点はわかりません。マタイやルカは中風の人を何人で運んだかわかりませんが、マルコでは四人と記しています。くどいですが、マルコの福音書は記載項目の数が少ないから、割愛しても良いとは言えない。マルコはその役割をしっかり果たしている。なくていいものではない。

 

 マタイはこの中風の人がどのように主イエスの前に連れてこられたか書いていません。マルコとルカは、イエス様が教えておられたところに、多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエス様がおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。

 

 ツァラアトの人が人前に出るのは非常識というか、律法違反になります。大勢の人がいるのに、屋根に上って、屋根をはがし、穴をあけて中風の人を、話しをされている主イエスの前に釣り下すのは律法違反にはなりませんが、非常識ですし、皆さんに迷惑をかけることになります。しかし、常識的に過ごしていて、この人の中風は治るのか。人に迷惑をかけないで過ごしていて、この人は回復するのか。それは望めない。信仰とは、こうした非常識なものであると言いたいのではなく、癒されたいと思う人は、癒してくれると思う人の前に進み出る。中風の人をかわいそうだな、俺たちは何もできないけど、イエス様のところにだったらどんなことがあっても連れて行くという覚悟、熱心があるのではないでしょうか。

 

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ルカは「友よ」となっています。普通、神様は、一人一人の信仰を見るのではないか。彼らの信仰とは何か。中風の人に癒されたいというこちらに伝わる意志、意欲はあるのか。そこはわからない。私は会ってないからわからない。いや、私は会ってもわからない。でも、イエス様がわかればいい。そして、中風の人を連れて来た、四人の信仰も見ておられた。彼らはただ連れて来たのではない。イエス様だったら何とかしてくださるという信仰を持っていた。「彼らの信仰」の中に、本人が含まれるのかわからない。おそらく含むでしょう。「よしてくれよ。どうせ俺を担いでいってくれても無駄だよ」とは言っていない。

 

 主イエスが「あなたの罪は赦された」と言われた。悔い改めもなく、赦されるのか。主イエスのところに出ることが悔い改めのスタートか。中風という病気は罪が原因なのか。中風でない人は罪を持たないのか。言えるのは元気な人も病気を持つ者も、みんな罪人。キリスト者も赦された罪人であり、これ以上罪を犯さないとも断定できない。

 

 

 ここでパリサイ人たちと律法学者たちは、「罪の赦しを宣言するとは何事か」と反応します。罪を赦すことのできるのは神だけなのだ。神でない者が罪を赦すとは、神への冒涜であると心で思った。しかし、イエス様は人となられた神様です。そして、彼らの思いも知って、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しい、と問います。口で言うだけならば、どちらも一緒。しかし、イエス様が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」と言って、中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。パリサイ人たちと律法学者たちの気持ちについては書かれていません。しかし、彼らは面目をつぶされたと思ったでしょうし、厄介なやつが活動していると思ったことでしょう。律法学者たちは聖書のことは良く知っていた。知識も知恵もあった。しかし、人となられた神を見るという知識も経験もなく、適切な対応ができなかった。ある意味、知識が常識となり、そこにとどまっていたために、今目の前でなされた神様のなさる業を受けとめられなかった。人々は、中風の人が、すぐに立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行ったのを見て、非常に驚きつつも、神様をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」この恐れは畏敬の念であり、主イエス様の言動に対する尊敬です。信仰をもって動く時に神様は働いてくださることに感謝です。



2024825日伝道ファミリー礼拝出エジプト記121-14節「私たちを救う過ぎ越しの小羊」

 

 ファミリー礼拝は年に6回、LCの礼拝と大人の礼拝を合わせて持たれます。また第4主日は伝道礼拝ですが、8月はキャンプでの証しをしてもらっています。

 

 LCの子どもたちは、とても記憶力がよく、先週のこともよく覚えていますが、大人の皆さんはその流れをご存知なく、LCで利用している教案誌『成長』のカリキュラムが途切れないようにしたいので、やや遡ってお話ししたいと思います。

 

 しばらく前に、大人の礼拝では、創世記を見てきましたが、兄たちに売られたヨセフはエジプトの大臣となっており、エジプトとカナン一体で飢饉が起きた時、ヨセフが父と一家70人を呼び寄せます。彼らはゴシェンの地に住み、羊を飼います。ヤコブは主のもとに召され、ヨセフもまた主のもとに召され、エジプト人も、エジプト人の命を救ったヨセフを忘れます。

 

 イスラエル人はたくさん子を生み、群れ広がり、増えて非常に強くなりました。それでエジプトの王は、戦争の時、敵方について我々と戦うといけないと考え、イスラエル人を重い労働で苦しめます。苦しめれば苦しめるほどイスラエル人はますます増え広がったので、イスラエル人の子どもが生まれるとき、男の子だったら殺すようにファラオは助産婦に命令します。それでも助産婦たちは神様を恐れ、男の子どもたちも生かしておきました。すると、今度はナイル川に投げ込むようにファラオは命じます。

 

 ある夫婦にも男の子が生まれ、かわいいので、隠していたのですが、3ヶ月たって隠しきれなくなります。それで、水漏れしないかごに入れて、ナイル川に流します。するとファラオの娘がこの男の子を見つけて引き揚げます。その男のこの名はモーセと名付けられます。モーセの姉のミリアムは赤ん坊に乳を飲ませる乳母、モーセの本当のお母さんを王女に紹介します。

 

 本当は殺されなければならなかったモーセは、王女から賃金をもらって、しかも、自分のお母さんに育てられます。神様はすべてご存知で、タイミングよく物事を進めてくださいます。

 

 モーセは乳離れした後、王女の下で、育てられたと思います。そして大人になります。モーセは自分の民族、イスラエル人、途中からヘブル人と書かれていますが、同じです。ヘブル人がエジプト人に打たれているのをモーセは目撃します。周りに誰もいないことを確認し、エジプト人を殺して土の中に埋めますが、次の日、ヘブル人同士が争っているのを見て、喧嘩しないように勧めますが、「おまえは私も殺すつもりか」と言われ、モーセはミディアンの地に逃げてしまいます。この時、モーセは40歳でした。

 

 モーセはホレブの山で、「わたしは『わたしはある』という者である」というお方にお会いします。これはヤハウェと言いますし、聖書で太字で「主」と書いています。天地の造り主、唯一絶対で、愛の神様です。主はイスラエルの叫びを聞かれ、エジプトから救出するために、モーセをリーダーにお立てになりました。

 

 モーセは兄のアロンとともに、エジプトの王ファラオのところに行き、エジプトから去らせてくださいと言います。ファラオは「主とは誰だ」とか、「男だけならいい」とか言いますが、男も女も子どもも、家畜もみんなというと、許可しませんでした。主が命じられているしるしを見せますが、対抗してきます。杖がヘビになり、ナイル川の水は血になり、蛙の群れ、と続きますが拒みます。ついに10番目の災いとなります。

 

 神様は「それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。」と言います。「あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」「そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。」とおっしゃいます。

 

続けて「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」と言われました。言い換えると、羊の血が家の門柱と鴨居に塗られている家は過ぎ越され、そうでない家には滅ぼす者のわざわいが起きる。血の塗られてない家で最初に生まれた者は死ぬという災いです。

 

ヤコブの子孫はエジプトで苦しみ、出エジプトを経験しました。だから、イスラエル人は今も過ぎ越しの祭りを行なっています。

 

それとは別に、今からやく2000年前、イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかってくださいましたが、それはちょうど過越しの祭りの日でした。そして、イエス様を救い主として信じる人は滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。私たちは羊を屠って過ぎ越しの祭りは行いませんが、主のよみがえられたイースターを祝い、毎週日曜日、主イエス様をほめたたえる礼拝を行っています。

 

皆さんの中には、エジプトに行かなければ、イスラエル人は苦しまなかったのにと思うかもしれません。でもそうすると、カナンの地で飢え死にしていたかもしれない。そして、創世記1513節で神様はアブラハムに「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。」と書かれてあり、5025節にも「ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、『神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください』と言った。」とあるので、すべて神様のおっしゃった通りになっています。みんな神様の言われたことを信じ、それに従っています。

 

 

イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」と言われます。それは過ぎ越しの祭りに関係しています。確かに、イエス様を信じた人は、イエス様の犠牲によって、罪赦され、神の子としていただける。私は、本当に神様に感謝しています。あなたがまだ、イエス様を自分の救い主として信じていないならば、神様のみことばを信じ、救いに与ってください。



2024811日 主日礼拝 マルコの福音書140-45節「ツァラアトを癒す主イエス」

 

 今、私たちの教会では、新改訳聖書2017を使用しています。2017はルターの宗教改革が1517年だったので、それに合わせた面もあります。その14年前の、2003年に新改訳第3版が発行されました。こちらは、およそ900節に見られる不快表現、差別表現を改定したものでした。身体的な弱さを指す言葉が多く改定されました。具体例は第三版の「あとがき」に記されています。また、新改訳聖書で33年間、「らい病」と記してきたことばも、「ツァラアト」に変更されました。

 

 新改訳聖書を使っている多くの教会に、アンケートが行われ、経緯の説明があり、用語として、「ツァラアト」を採用していいかどうかというものでした。ずっと、「らい病」とされてきたし、その方が「ツァラアト」よりも言葉としては馴染みがあるので、変更しないで、そのままの方が良いという回答が多かったと思います。しかし、第三版と2017のあとがきにもありますが、「聖書のツァラアトは皮膚に現れるだけではなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密には何を指しているかはいまだに明らかではない」ということで、変更されました。

 

 旧約ヘブル語聖書ではツァラアトです。新約ギリシア語聖書では「レプラ」「レプロス」ですが、新約もすべて「ツァラアト」で表現されます。新共同訳聖書では「重い皮膚病」に改定しましたが、国立療養所長島愛生園長島曙教会の牧師らは「不適訳で、真実、愛、真心のある訳ではない」ものであって「聖書が差別・偏見を与えるものとなり、社会に悪影響を及ぼす」と発したことも、第三版の発行意図でもありました。

 

 さて、ツァラアトについてはレビ記13章に詳細な規定があり、ツァラアトであることも、回復した場合も、祭司が見て、判定します。そしてツァラアトであれば祭司は「彼は汚れている」と宣言しなければならず、本には「自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。」病気とその人の人格が関係しないのに、隔離され、他の人が感染しないように配慮して、「私は汚れています」と言わなければならないのもつらいものです。しかし、ツァラアトがなくなれば祭司は、その人はきよいと宣言します。

 

 このツァラアトの記事は3つの福音書に記されており、マタイは山上での説教の後での最初の出来事として、一番コンパクトに記しています。そして、福音書としては一番コンパクトなマルコでは一番詳しく記されています。マタイでは大勢の群衆がイエス様に従って来ているのに、「だれにも話さないように気をつけなさい」というのは不思議です。ルカもある町での出来事として記していますが、イエス様にこっそり懇願することもできますが、マルコではひざまずいて懇願しているので、周りの人に悟られてしまいます。

 

 しかし、この人にとっては、周りの人は気になっていない。ただただ、癒してもらいたいということ。本当は「私は汚れております」と叫ばなければならないところ、「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」という。これはこの人のイエス様に対する信仰であり、確信でした。

 

 ほほにできたニキビは隠しようがありませんが、おでこにできたニキビは隠す人もいるかもしれません。今はニキビクリームがあってある程度対処できます。私の中高生のころはクレアラシルというものがありました。今でもあるようですが、そういうものを薬局に買いに行くのも恥ずかしいと思う人もいるでしょう。これが臀部にできる腫物であれば、痛みを伴っても、なお薬局や病院に行くのをためらう人がいるかもしれませんが、病気は、ためらったり、恥じらったりせず、受診するのが良いと思います。当時のツァラアトの人はためらいや恥ずかしさを感じていたかどうかわかりません。それよりも、不便で、不自由で、煩わしかったでしょう。そして、大胆に、主の前に出た。イエス様が癒されなかったら、赤っ恥をかいたか、怒りを抱いたのでしょうか。でも、信仰をもって進み出たことに対して、主はしっかり応じてくださいました。

 

 ふつう、感染することを避けて、患者には触らないと思いますが、主イエスは、この人を深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。病気を抱えた人々の辛さをイエス様はよくご存じです。そして、触れられた。そして宣言された。

 

 イエス様に一番愛されていたと自他ともに認める使徒ヨハネは、3つ目の手紙で「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」と書いています。そして、これはヨハネばかりか、私たちみんなが自らに思うことであり、人々に願うことでもありますが、何よりも、神様のみこころであります。魂と身体が健やかであること。

 

 祭司が人を見て、次に患部を見るのは1週間後ですが、イエス様の発言のあと、「すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」それは嬉しいことであり、自分は治ったことと、イエス様は治してくださったことをみんなに伝えたいはずです。

 

 しかしイエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」と言われた。

 

 ツァラアトであった者にも、自分が癒されたことは明確であった。しかし、規定に沿って祭司に見せること。イエス様は人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」という。イエス様を通せば、規程に沿わなくていいというのではない。彼はささげ物をすることを嫌ってイエス様のところに来たのではない。

 

 ただ、イエス様が「だれにも何も話さないように気をつけなさい。」と言われたのはなぜか。もちろん、今までは、表立って町に入られたのに、騒ぎが起き、町の外の寂しいところに追いやられることを避けたかったということもあるでしょう。また、イエス様は、彼の信仰を見て、癒された。しかし、イエス様の偉大さを信じてではなく、この人の話を聞いて、来る人を避けたかったのではないでしょうか。

 

 

 では、なぜ、この厳しく戒められたにもかかわらず、彼は出て行って触れ回ったのか。それは本当にうれしくて、うれしくて、黙っていることができなかったのでしょう。イエス様はそのこともあらかじめわかっていたでしょうが、信仰をもって進み出たこの者を癒されました。ここに主の深いあわれみが現れています。



2024721日 主日礼拝 ルカの福音書51-11節「大漁を与える主イエス」

 

 聖書をランダムに読む方もいると思いますが、大概、記されている順に読むのではないかと思います。そして、マタイの福音書を読み、マルコを読むと、同じ記事に当たるわけですが、違いを気にせず読み進む人もいれば、もう一度マタイに戻って読み、ルカはどうか、ヨハネはどうか、読む比べる人もいます。そういう人が、福音書の対照表を作成しますが、今回、私は、ナビバイブル1775ページから記されているものを参考にしています。そして、以前、『ひと目で見る四福音書』というものをご紹介しました。また、新聖書辞典の巻末付録にも福音書記事の対照表があります。他にもこうしたものがあると思います。

 

 この3つの対照表を見比べるのも面白いのですが、それは脇に置いて、今日のルカの福音書の記事は、マタイの福音書418-22節、マルコの福音書116-20節を見た、69日の「漁師4人、主イエスに従う」と同じではないかと思われます。ナビバイブルでは、ルカの福音書では、大漁に視点を向けています。『ひと目で見る四福音書』と『新聖書辞典』ではどう扱っているか。これらでは、やはり3つの福音書をひとつの時期と見なしています。

 

 さて、マタイとマルコでは、ガリラヤ湖での出来事で、召されたのは網を打っていたペテロとアンデレ、さらに網を繕っていたヤコブとヨハネでした。ペテロとアンデレは網を捨て、ヤコブとヨハネは父ゼベダイを残して、主イエスに従った。

 

 ナビバイブルはルカの福音書を今の記事とは一つにしていない。いろいろ考えたのでしょう。一つは、ルカ51節、「群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来た」とあります。そして、「イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って」とある。ただし、ゲネサレ湖はガリラヤ湖と同じです。新改訳聖書2017の地図11を見ると、ガリラヤ湖と記していますが、ガリラヤ地方にあるからガリラヤ湖と言っている。また湖畔にゲネサレという町があるので、ゲネサレ湖という。旧約時代はキネレテの海と呼ばれていました。捕囚帰還後にゲネサレと呼ばれています。だから広く一般ではゲネサレ、通称ガリラヤ湖ということになります。マタイでもゲネサレが出てきますが、こちらは地名として扱っています。一般にエベレストと言われるが、現地ではチョモランマと言うのと同じです。

 

 確かに、ペテロとアンデレの舟、さらにヤコブとヨハネの舟はあった。マタイはマルコの記事にならい、ルカは独自取材で記した。ここも、双方に食い違いがあるのではなく、記者の視点の違いがある。同じ場にいても、必ずしも、人と同じものを見ているとは言えない。自分の目の前にあるものしか見ていないこともある。それだけではなく、表現も、網羅的に語る場合と、限定的に語るばあもある。マルコは群衆のことには触れず、ルカはペテロの網打ちは語らりません。ヨハネは、「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」書いています。つまり、世界中がイエス様の言行録だらけになってします。だから、内容をしぼらなければならない。

 

 シモン・ペテロは漁をしたけど、収獲はなく、網を洗い始めた。この時、人は虚しさを覚えます。3節、イエス様はシモン・ペテロの舟に乗り、「陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。」周りには群衆。少し距離をとった方が良い。その後、シモン・ペテロ言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

 

 漁師に向かって、大工の息子が網を下ろして魚を捕りなさい。その道の専門家が、部外者に指示されるのは嫌なことの一つでしょう。

 

 シモン・ペテロは「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」とお行儀よく言っていますが、私だったら「冗談言ってもらっちゃ困ります。夜通し働いて何も取れなくて、気分も悪いし、ぐったり疲れているんだ。何もわからないあなたにあれこれ指示されるのも嫌だね。だけど、そこまで言うならやってみましょう。しかし、捕れなきゃ、その時は、どうしてくださるんだろうかな。」と言ったかもしれません。

 

 6節「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。」

 

 シモン・ペテロは、このお方はただものじゃないと直感した。そして、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」イエス様はただ群衆相手にお説教をする方ではなく、魚の居場所もご存知の偉大なお方だと思った。だから、こんな罪深い自分から離れてくださいという。畏敬の念と言っていいと思います。

 

 本当は、自分が、退くのでしょうが、舟の中なので、イエス様に離れていただくしかない。9

「彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。」とあり、おそらく、今まで体験したことのないような奇跡的な、大漁だったのでしょう。

 

イエス様はシモン・ペテロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と言われ、「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。

 

 

マルコとマタイでは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」です。イエス様の語られたことは、マルコにある通りだと思います。しかし、人によっては、人間をとる漁師ということだと、混乱して、理解できないこともある事を想定して、ルカは「あなたは人間を捕る」と言われた。その意味も、「わたしの救いを人々にもたらす働き人にします」ということでありました。ペテロたちが丸一日漁をしても何も捕れなかったのに、イエス様の指示に従うと舟が沈みそうになるぐらいの大漁をもたらした。この方を無視して、漁師を続けるべきか、この方に従って人間を捕る者になるか、彼らには迷いはなく、すべてを捨てて、主イエスに従うこととしました。現在、人手不足の世の中。牧師も不足。だけど、主はもう働き人を求めていないのでしょうか。あるいはネットやAIで事足りるのでしょうか。あるいは、私たちが主の招きを聞いていなだけなのでしょうか。あるいはガリラヤの漁師を召されたように、私たちには想像もつかないことをされるのでしょうか。主のご熱心に感謝しますし、私たちは、私たちに応じられることをさせていただきましょう。



2024714日 主日礼拝 マルコの福音書135-39節、ルカの福音書442-44節、マタイの福音書423-25節「ガリラヤ全土での説教」

 

 あるクリスチャンのご夫妻は結婚して、30余年とのこと。しかし、弱さ故、すぐ相手の弱点を攻撃してしまうのだと。本当は、相手の弱さを補い合うのが夫婦なのにと。教えられます。

 

 さて、今日も、3つの共観福音書に共通するところですが、マルコにのみ記されているのが35節、「イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」ということでしょう。もちろん、ポイントは時間帯や場所ではなく、天の父に祈ること。なぜ、神であるお方が祈りを必要とするのか。イエス様は神様であり、神としての権威も力もお持ちである。しかし、天の父のみ旨に沿うよう、いつも相談されていた。神の御子がこれほど天の父と相談することを必要とするのであれば、私たちも当然、挨拶だけでは足りない。賛美と感謝だけでは足りない。どうしたらいいでしょうか。いつでも祈ることが大切です。

 

 36節で、「シモンと仲間たち」という表現に、シモン・ペテロのリーダーとしての様相が現れています。彼らは、イエス様がおられないことを気にして探し回った。あとは、イエス様が朝早く寂しいところで祈ることはなくなったというのではなく、イエス様は朝早くから寂しいところで祈られていることが分かったので、捜さなくなったということ。

 

 38節、イエス様は「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」と言う。ご自分が何をすべきか、どうしてそれをするのか、よくわかっておられる。39節「こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。」

 

 イエス様はガリラヤのナザレで育ち、カナで結婚式、前回はカペナウムでペテロの姑のいやしを行い、ナイン、ゲルゲサ、ベツサイダ、コラジン等をまわります。

 

 ルカは、群衆がイエス様を探し回っていることを記します。追っかけというか、群衆にとっても、イエス様はいなくてはならない存在。それは病気をいやし、悪霊を追い出してくださるから。そして、彼らは、自分たちから離れていかないように求める。それは、彼らにとっては、いつでもイエス様が近くにいてくださるという面で、当然の求めです。しかし、ルカ443節イエス様は「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」と語られる。イエス様の広い働きを、自分たちのうちにだけ、留めておいてはならない。もちろん、ガリラヤ地方の、ユダヤの諸会堂で、宣教を続けられた。

 

 都知事選では、選挙期間、私が教会にいるときに、千歳烏山で演説された候補者はいませんでした。23区あって、すべての有権者の前に立つことはできないのは当然です。マタイは、主イエス様が、「ガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」とある。ガリラヤにあるすべての会堂数はわかりませんが、ユダヤ人男性が10名いれば、会堂を持てます。しかし、ユダヤ人男性10人ごとに1会堂ではなく、100人いても1会堂ですので、すべての会堂を回ることは可能でしょうし、御国の福音を語り、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒された。治せないものはなかった。

 

 

イエス様の評判はシリア全域に広まった。シリアとは、エルサレムの北のサマリヤ、ガラテヤ、さらにその北の地方を指します。「それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」てんかんは脳の意識消失やけいれんでしょう。中風は脳卒中や脳血栓などの脳血管疾患で、半身不随や言語障害を抱えた人でしょう。こういう人々が癒され、大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエス様に従いました。



202477日 主日礼拝 マルコの福音書129-34節、ルカの福音書438-41節、マタイの福音書814-17節「主イエスのいやし」

 

 先週は、イエス様が権威をもって語り、汚れた霊を追い出すことをみました。マルコとルカの福音書は、そのまま、イエス様がペテロの姑と大勢の人をいやす記事となります。マタイは、山上の説教を5-7章にまとめて記すために、このいやしの記事は8章に入ってからとなります。

 

 パウロに姉妹やおいがいることが使徒の働き、1コリント95節等に記されていますが、パウロは独身でした。ペテロには子どもやおい、めいがいたかわかりません。しかし、ペテロは主に召しだされる前から妻がいたことが分かります。ただ、ペテロの家は自分の育った家なのか、妻の家なのか、わかりません。しかし、マルコ129節、「一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。」とあるので、ペテロの生家と思われます。現在カペナウムに行くと、ペテロの家の遺跡の上に建てられた教会があります。イエス様もヤコブもヨハネも入り、他の人々も入れるので、広い家です。

 

 マルコ118節では、シモンペテロとアンデレは、網は捨てたが、家は捨てなかったのかという突込みがあるかもしれません。でも、冷静に考えてみれば、イエス様に従うために、従事していた仕事を捨てなければならないこともある。しかし、パウロは天幕づくりをし、ルカは医師であった。手に職があり、場所に縛られないのであれば、その職は活用できる。また、妻や姑が暮らすための家、時にはイエス様やヤコブとヨハネをお連れできる家があるのであれば、それも活用できる。ある意味、どこで何をするのかということになりますが、主に従うこと=職業も家も手放すということではありません。

 

 ある人は、教会の近くに家を持ち、地元にも聖書学校があったが、聖書神学舎で学んで、地元に戻り、母教会の牧師になった。教会で、そうした暗黙の了解があったのでしょうが、主への服従すべてが、アブラハムのように、生まれ故郷を離れ、父を離れるということではないようです。人事担当でもある神様は、私たちの個別の賜物ばかりか、個別の事情も、よくご存知です。もたろん、私たちが執着しないのであれば、灼熱の大地や極寒の地域にも導かれるのでしょう。しかし、心配は不要です。私たちは、信仰とはかくかくしかじか、献身とはかくかくしかじかと、人間的にパターン化したものを思いやすいですが、神様の枠は広い。その証拠に、異端は全く別物として、私たちの理解できない主の教会が世界にはいっぱいあります。

 

 ヤコブとヨハネは、同じカペナウムに父が住むが、そこには行かず、イエス様のそばから離れない。

 

 マルコでは、一行がシモンとアンデレの家に行ったように記されていますが、ルカもマタイも「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。」、「それからイエスはペテロの家に入り」とあります。イエス様が主導してペテロの家に行かれた。

 

 マルコもルカもマタイも「シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。」、「シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。」、「彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。」とありますが、イエス様は何も知らずに、ペテロの家に行ったのでしょうか。家にイエス様が来たので、シモンの姑がひどい熱で、苦しんでいることを伝えたのでしょうか。すでにご存知であったのではないでしょうか。また、人々とはだれか。シモンの妻は含むでしょう。ご近所さんもいたかもしれません。

 

 イエス様がしたのは、マルコでは「そばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。」とあり、ルカでは「イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。」とあり、マタイは「イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、」とあります。だから21で、イエス様がペテロの姑の手を触れられたからいやされたといいたいところですが、イエス様の心の中には、熱をしかりつけられる思いはあったのだと思います。ただ触ったのではなく、いやしを願われて触られた。つまり、イエス様の意思がいやしにつながっている。これもイエス様の権威です。しかも触られた。しかも体の完全な回復がなされた。

 

 いやしに関して、現代は十分な医療技術、施設があるので、奇跡的ないやしは去ったといわれることもありますが、今なお、イエス様に託された権威は弟子たちに引き継がれ、信仰によるいやしは聖書が語ります。それは患部に触れるだけではなく、命じるだけでなく、信じて祈ることによって、神様がなされることです。

 

 祈って癒されないとどうなるか心配、不安になる方もおられましょう。すぐいやされるのも、すぐいやされないも神様の主権によります。私たちはいつでも謙虚に、神様にいやしを求めることができます。

 

 ペテロの姑の熱は何によるものだったのか。どのくらいの期間続いたのかは不明ですが、完全に回復し、彼女は人々をもてなした。彼女の感謝と喜びの表れです。

 

 ペテロの姑のいやしを、人々は自分の家族や近所に語った。それで、夕方が何かを意味してるのか、普段は病気等を隠してきたのか、単に、仕事や食事を終えた後なのか。安息日の終わりを示します。「病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。」ルカでは「様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。」とあります。マルコでは「イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。」と結びます。ルカは「イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」とあります。マタイでは「イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」つまり、病気の人には手をおき、悪霊につれた者にはお命じになった。

 

 

 先の汚れた霊につれた者も「あなたは神の聖者です」と告白し、ルカでは悪霊どもも「あなたこそ神の子です」と叫びながら、多くの人から出て行った。そう叫ばないのでは、悪霊としての面目が立たなかったのでしょう。普通の人間が命じたのでは、俺たちは出ていかない。しかし、神の御子イエス様に命じられたのでは、出ていかざるを得ないのですと、降伏したのでしょう。マタイは、これらの出来事が預言の成就であることを示して、「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。』」イザヤ書534節からの引用です。



2024630日 主日礼拝 マルコの福音書121-28節、ルカの福音書431-37

「主イエスの権威」

 

 イエス様の権威について書かれているところは何か所もありますが、カペナウムで汚れた霊が出ていくことが書かれているのは、マルコとルカのみです。いずれも「それから」で始まりますが、マルコの方はイエス様が4人の漁師を召し出した後のこと、ルカの方はイエス様が会堂で教えている途中で、引用が異邦人のシドン人のやもめやナアマンのことだったので、人々が憤り、がけからイエス様を突き落とそうとした後に続きます。ナビバイブルの編集者の見解では、がけから突き落とされそうになった後、4人の漁師を召し、カペナウムに入ったことになります。

 

 実際、私たちが経験することは、しっかり記録をとっていなければ、後先が逆になったり、わからなくなる場合があります。どんな出来事があったかは思い出せても、その正確な順番はなかなか判断しずらい。聖書は聖霊によって書かれているので、聖霊が思い出させて書いているので、それが順番に通りになるはずです。しかし、4つの福音書はそれぞれの著者の性格も反映されています。だから、全く同じわけではありません。

 

 マルコはペテロの口述筆記だといわれます。比較的、率直、素朴な印象を与えますし、ルカはいろいろな人に聞きまわって緻密に調査して書き記します。では、この記事を記していないマタイとヨハネはなぜ書いていないのか。マタイはまだ召し出されていなく、ヨハネは3つの福音書を補うことが多く、既に記されていることは、ことさら重要なこと以外は記さない。

 

 さて、「権威」というと、欲する人もいますし、拒絶する人もいます。ギリシャ語で「エクスーシア」と言います。詳しく言うと、ギリシャ語の辞書では6つに分けます。①ある事をする自由、権利、権限、資格、②能力、権力、権威、③権能、全権、④支配権、主権、職権、⑤権力範囲、支配区、支配領域、管轄、⑥権力の所有者のことを言います。

 

 日本ではある程度秩序が保てていますが、国によっては権力の乱用があるかもしれません。それでも、自身の経歴に傷をつけないために県内の警察官の不祥事を隠ぺいするようなことは乱用だと思いますし、自身の政党の支持率維持のために定額減税をしたり、猛暑乗り切り緊急支援としての電気代補助は助けにはなりますが、権力乱用で、一時的ではなく、恒久的に税額や公共料金の低額化に努めるのが賢明なリーダーだと思います。来週は都知事選がありますが、祈りつつ、賢明な人を選ぶことは大切です。もちろん、どんな人も限界があり、腐敗もある。神様に頼るのが一番です。しかし、私たちは置かれているところで用いることのできのものは用いる。

 

 さて、イエス様は、会堂で教えられていることが、ずれているのに、そこを避けず、自らが会堂に行き、自らがまっすぐに教えます。律法学者でもないイエス様に、みことばを開く機会を与えるユダヤ教の寛大さを見ます。いつもは、律法学者がみことばを開く。しかし、その律法学者には権威がない。「この箇所はこういう意味かもしれませんね。いやいや、こう意味かもしれませんね。結局今となってはわからない。想像の域を出ないですね」だと、どうしたらいいのかわからない。ユダヤ教の伝統的な教えは、ラビ・アキバはこう教えたとか、ラビ・ガブリエルはこうであったと続きます。長いこと聞かされて、「実際のところあなたはどう思うの」と聞くと、また振出しに戻って、ラビ・アキバはとなる。

 

 ところが、イエス様は断言される。山上の説教もお見事です。確信をもって教える。私たちの周りには、確信の強い人はいます。しかし、それが個人の見解か、神様のおっしゃることか。見極めが難しいこともあれば、明確な時もあります。

 

 イエス様は、マルコでは「律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられた」とあり、ルカでは「そのことばに権威があったからである。」と記します。イエス様は自分の父から教えられた、聞いた、権威を与えられたことを、権威の根拠としています。

 

神様が生きて働いておられる証拠の一つは、23-24節「ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。『ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。』」皆はどうなるか様子を見守る。イエス様が神の子でも何でもないのであれば「やばい。邪魔が入った」と考えるのですが、25-26節「イエスは彼を叱って、『黙れ。この人から出て行け』と言われた。すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」

 

イエス様の教える権威に驚いている人々が、汚れた霊を追い出す権威をもお持ちであることを知ります。ここが、神様が生きていて働いておられるところで、確かに、汚れた霊が出ていくのが、イエス様の命じる権威です。汚れた霊もイエス様に聞き従わないわけにはいかない。

 

 汚れた霊が何も言わずも身を潜めていたら、人に留まることができた。なのに、語ったがゆえに追い出された。これは、イエス様が人に汚れた霊がついていることをご存知であり、人を解放することを望まれ、しかも、ご自分に力がある事をご提示されたからです。

 

 今まで、こんなことは見聞きしていないので、27節、人々が驚くのは当然です。加えて、ルカでは「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」と彼らが言ったことを記し、マルコは「論じ合った」と記します。こうした中身は、後々、明らかになります。素直にイエス様の力を信じる者もいれば、マルコ322節のように「『彼はベルゼブルにつかれている』とか、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している』」と考える者もいた。一般の人が行い得ないことです。だから、イエス様は神様の権威をお持ちなのか、あるいは神様に逆らう悪魔の力を持っているのか。イエス様が悪霊のかしらによって、これをなしたとすれば、そうすることの意味は何なのか。主イエスは私たちを罪から解放するために遣わされたメシアであると信じることができるのは幸いなことであります。

 

 

 悪霊のかしらによってという考えは、どうしてもキリストの権威を認めたくないエルサレムにいる律法学者の出した見解でした。自分の今ある地位を揺るがされたくないという思いから出ているのでしょう。しかし、主イエスを認め、受け入れたら、御国における確かな住まいを得るのに、この世の地位にしがみついたため、最後にはキリストを十字架にかけることになります。神様の守りのうちに置かれるか、神様に敵対するか、主イエスの救いの恵みに与るか、救いを拒むか、どちらが賢明か、誰でもわかるはずですが、地位や権力やお金はそうしたものを見えなくさせてしまいます。



2024623日 伝道礼拝 エゼキエル書317-21節「この先注意」

 

 世の中にはいろいろな看板があります。案内もあれば、警告もあります。案内看板は自分が行きたいところに行くには便利です。ところが、警告は案外、軽んじられています。この先カーブ、スピードを落とせ。この先学校ありとあっても無視。落石注意というのはどうしたらいいのか。覚悟にはなりますがいつも落石があるとは限らない。野生動物飛び出し注意とあっても、自分が事故に遭うまでは、どうして高速に鹿が入って来るのかと疑う。子育て中の母熊は気が荒いと聞きますが、実際に車に体当たりする映像を見て、アッ、本当だと認識します。看板の必要性に気づかないこともあるでしょうし、設置されている看板を取り外すという悪質な行為もあるかもしれません。

 

 聖書にも、結構、注意喚起、警告があります。しかし、結構、皆さんのんきで、手遅れの場合もあります。哲学者マルティン・ハイデガーは、「死がなければ、人は自分の人生と真剣に向き合わない」と言います。テストがなければ勉強しないという人もいれば、親の財産がある限り、俺は働かないというモットーを持つお坊ちゃまもいるかもしれない。

 

 「言うことを聞かなければ、お前を殺すぞ」というのは脅しです。しかし、脅すだけではなく、実行してしまう者もいます。

 

 老後の後悔ベスト3は人間関係、健康、お金だそうです。私は、信仰はとても大切であると思います。滅びなくていいものを、無知のまま、あるいは拒絶したまま、失ってしまう。残念ですね。

 

 イエス様が来られる前の人々は、救い主の存在を知らなかった。ただし、ユダヤ人をはじめ、中近東の人は唯一まことの神を知ろうと思えば知れた。それでも、預言者がいて、預言者が神様に遣わされて、メッセージを語った。ただ、知るだけなのと、聞き従うのとは天と地の隔てがあります。

 

 エゼキエルという預言者がおりました。エゼキエル書317節で「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」とあります。人の子とはエゼキエルのこと。「わたし」は神様です。神様に代わって人に語ることが求められました。

 

18節「 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」もしエゼキエルが警告を与えないなら、悪者は死に、エゼキエルは悪者の血の責任を問われる。

 

19節「 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」悪者が警告を与えられても、悔い改めないならば、悪者は死に、エゼキエルには責任はない。

 

20節「 また、正しい人がその正しい行いをやめて不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行った正しい行いは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」正しい人も、今まで正しく生きてきたので、ここで少しぐらい悪を行なっても良いかというと、そうではない。

 

21節「 しかし、もしあなたがその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。」つまり、エゼキエルは正しい人も励まさなければならない。預言者の働きは大切で、人の生き死にがかかっている。

 

イエス様が来られて、弟子たちが世界に福音を語る使命を受け、現代は、ほぼ世界にクリスチャンもいれば、教会もある。イスラム圏は少ない。日本では信教の自由があるが、クリスチャンの数で言えば、決して多くない。そのクリスチャンは地の塩であり、世の光です。今はだれでも、福音を知りたいと思えば、旧約時代に比べ、確かに、到達しやすい。しかし、生きて存在するクリスチャンは大切で、預言者とは言いませんが、キリストを信じる者はすべてキリストの弟子であり、キリストの大使です。もちろん、祭司でもあります。

 

天国へ行くための看板は街にはありません。警察官も、裁判官も、天国に行く確かな方法は知りません。だけど、信仰の長い短いにかかわらず、男性でも女性でも、子どもも、大人も、クリスチャンはみんな本物の救いを知っています。

 

どうして、キリストを信じるようになったのか、それぞれのストーリーもあります。天国に行く方法を尋ねられて、俺は知らないとか、私に聞かないでというクリスチャンがいるとしたら、その責任は重大です。

 

どうしたら救われるのか、5分あれば十分語れる。あなたの5分で一人救われるならその5分は永遠につながる5分です。みことばを聞いて成長すれば、100倍、60倍、30倍の実を結ぶ実とは何か。人なのではないか。イエス様を信じる人。私たちの生涯で、キリストを信じる人が100人いると素晴らしい。60人、30人いると素晴らしい。人が永遠のいのちを持つための証しはかけがえのない奉仕です。大衆伝道者になれば、1000人、1万人、いや数知れず、福音を語り、真理を示し、イエス・キリストの救いへと導きます。

 

アダムの罪で全世界に罪が広がった。罪の結果が滅びです。神様は人間を造り、人間を愛しているので、救うことにした。御子を天から地に送り、十字架にかかって死ぬことで、信じるすべての者の罪を赦し、永遠の命に与るように。罪の支配は悪魔の抑圧ですが、キリストの救いは解放であり、自由と喜び、そして本来あるものへの回復です。すぐ、変えられる部分とじっくり変えられる部分とがありますが、それも喜びです。

 

 

 聖書が教える神様と神様の愛、神様の愛から生まれる救いと祝福を是非あなたの物としてください。



2024616日 主日礼拝 ローマ人への手紙121節「キリスト者にふさわしい礼拝」

 

朝顔教会で、井出定次先生が牧師の頃、浜田山の牧師は舟喜信先生が務めていました。礼拝でされたメッセージを教会員の方が書き起こして『キリスト者が神を信じるということ』という本を出しております。ここで、神を信じると言っても、一般の人の神信仰と、キリスト者の神信仰が似ても似つかわないということを言います。そして、キリスト信者に、キリスト信者にふさわしい神信仰をせよと促します。ポイントは誰が中心なのか。つまり神様なのか、自分なのか。

 

 今から約2000年前に、パウロは、キリスト者が神を礼拝するという題材で、ローマ人への手紙12章で、キリスト者がする礼拝を教えています。キリスト者がする礼拝とは何かわかっていて、それをする者は本物のキリスト者です。仮に、わかっていなくても今日そのことを知り、そう生きると良い。礼拝とは、神様に対した生き方で、奥行きが深いものでもあります。

 

 「自分はクリスチャンです」と言う人は多くいます。その根拠は、神様を信じている、洗礼を受けているという。しかし、普段、聖書を読んでいない、祈ってはいない、教会にも通えていないということもありうる。いろいろな事情がありましょう。しかしそのままでは本来得られる祝福も導きも得られないまま、本来の役割を果たせないままとなります。

 

 新改訳聖書には93回「礼拝」と出てきます。しかし「礼拝」という言葉だけでは礼拝を表しきれない。このうち7回は「偶像礼拝」となっています。そして「礼拝」という言葉を使っていなくとも、神様を礼拝すること、神様ではないものを礼拝していることもある。新聖書辞典では、「『礼拝』とは神聖な存在に敬意を表して拝むことを意味しているが、聖書は種々の用語でこれを表している。例えばヘブル語ではアーバドゥ(奉仕する)、シャーハーフ(お辞儀する)、シャーラス(仕える)、ダーラシュ(求める)、ギリシャ語ではゴニュペテオー(ひざまずく)、ブロスキュネオー(お辞儀する)、ラトゥレイア(奉仕)、レイトゥールギア(公の奉仕)、ホモロギア(告白的一致)など、聖書の礼拝概念の豊富さを語っています。」とある。9月、1月の礼拝メッセージで学ぶ、奉仕や献金も礼拝に深く関係します。

 

 日曜日の午前10時半から12時まで、教会に集い、礼拝の場にいても、礼拝したとは言えない。心が神様に向けられていたかを問われる。しばしば礼拝後の活動に心が向けられることもある。サウル王は神様の指示には従わず、ただ民の前に神を礼拝する者であることを見せるためにサムエルの同行を求めます(1サム15)。イスラエルの悪王アハブも妻イザベルの国のバアルに仕えます。多神論者は様々な神々を礼拝することは良いことだと考えますが、神様が唯一ならば、偽物を拝むことはまことの神様に喜ばれません。

 

 私たちは労働の対価として賃金を得、それによって必要な物を買います。お金が生活の手段であるのは普通のことですが、お金を人生の目的とし、お金を崇拝すると、御心に叶った生き方はできなくなります。主イエスは「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタ 6:24)とおっしゃいましたが、この「仕える」も礼拝を意味します。拝金主義は英語でMoney worshipと言います。キリスト者は経済活動してはならないというのではなく、神様を第一とする生き方を勧めます。

 

 現代は実に多様な価値観があり、誰かに強いられるのを嫌います。自由な選択を求めます。それは人間が生まれてから求め続けてきたことですが、本当のところ、どうしたら幸せなのか。神様の言うことなのか、自分の思っていることなのか、体験しなければわからない。体験せずに、それを知るには、神様への信仰、聖書への信頼が必要です。もちろん、実地体験も良しです。

 

さて、礼拝には公的礼拝と私的礼拝があります。私的礼拝とは家庭礼拝、デボーションも、短い祈りも含みます。そして、公的礼拝の代表は主日礼拝ですが、私は私的礼拝をしているので公的礼拝は要らないというと、神の民全体としての歩みができない。逆に、私は主日礼拝をしているので私的礼拝は要らないとは言えない。なぜならば、キリスト者は一人であって、神様との個人的な関係を持つからです。双方が大切です。

 

 礼拝とは先のことばでは奉仕、お辞儀、ひざまずく、告白的一致であることを見ましたが、言い方を変えると神様との関係の深さ、仲の良さ、愛の深さと言えます。神様は私たちを愛し、私たちの救いのために御子を遣わし、永遠のいのちをくださった。それを喜び、感謝し、神様をほめたたえ、神様にお仕えするのが礼拝です。だから、主日礼拝をおろそかにすることも、私的礼拝をおろそかにすることも、神様は第一ではないという表明になってしまいます。

 

 いつでも、パーフェクトにいくとは限らない。本当に忙しい1週間でくたくただった。おまけに寝坊し、電車も遅れてしまったということもある。日曜日はお出かけで道が渋滞するということもある。だけどまた、神様に祈って、みことばに励まされ、第一のことを第一とすると、不思議と仕事がうまく進み、充実するということが多い。第一のことを後回しにすると結局は遠回りすることになります。

 

 礼拝に遅れてきたり、礼拝で居眠りしたり、祝祷後速やかに帰る人がいます。それぞれ事情がある。しかし、それが常態化していれば、改善が必要かもしれません。私は、大学生の頃、たった90分の礼拝、しかもたった50分の説教、○○さんはしっかり取り組めないものか、と心の中で思っていました。寝ている人をちらちら見る私の動きに気づいてか、牧師は、そのキリスト者がとても疲れているのに、ベッドに留まることを決断しないで、教会に来ることを選択したことをほめます。説教を聞きながら居眠りできるとは、幸せではないかと言います。そういう見方もある。人の目には居眠りに見えても、目を閉じて、主の前でしっかり聞き入っていることもある。

 

 さて、誰もが日曜日に礼拝に出席できるわけではない。交通関係、医療関係、サービス関係、教育関係、警察官、消防士、それ以外の公務員でも、日曜日が確実に休みとは言えない。しかし、祈りつつ、公的礼拝もしっかりできる職業選択、クラブ、部活動選択は賢明です。

 

 何事でも、私たちは自分の判断ではついつい甘くなったり、人によっては逆に厳しくなりすぎることもある。だから正しいみことばの解釈と主にある兄弟姉妹の交わりは大切です。それがなし得るのも礼拝の後に祈りと交わりがあるからです。

 

ローマ人への手紙12章1節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ここでは、主によって贖われた人間はもはや自分自身のための存在ではないことを語ります。神のものでもあり、神の家族のものでもあります。そしてヘブルへの手紙でも12章28節「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」と勧めます。

 

 主の教会は時代ごとに、それぞれ教会のあり方を見つめ直してきました。全世代が一堂に集まる礼拝。世代別に分かれる礼拝。最初に一緒に集まり、別れる礼拝。反対に、はじめ別々で最後に集まる教会。慣れもあるでしょう。方向性を見出すのに、時間もかかり、時間をかけてもしっくりしないこともある。しかしそれはまた、お互いに愛し合い、理解し、祈り、支え合うためである。

 

 元気なこどもの声が聞こえない教会はやがて先細っていくこともある。お年寄りのいない教会は活発な活動がなされるかもしれないが、過去の経験を持たず、失敗を繰り返す可能性もある。自分たちが思うようにやれるのは幸せだが、受けなくていい傷を負うこともある。祈られ、見守られ、時に助言をもらえる教会は生き生きして、いろいろなことに取り組むことができるのだと信じます。

 

 インターネットというか、通信を用いての礼拝は、教会に来なくとも、家や旅先、あるいは職場にいて、礼拝に参加できるという意味で、とても便利なものです。しかし、便利さで考えるのであれば、なぜ、イエス様は天から地に来られ、そして十字架にかかられて死なれたのか。天にあげられたようにして、再び来られると約束されたのか。人と関わらない方が、思わず傷つけてしまうことも、傷つけられてしまうこともなく、安心ではないか。しかし、実際に会ってつまずいたり、つまずかせてしまうのがあるのはどうしてか。自分の姿を知り、謝るためであり、赦すためであり、愛し合うためではないか。思いがけず、励まされ、励ますためではないか。

 

 この国の人口減少は「生めよ。増えよ。」の原則には立たないからか。大家族を貧しさの象徴と取り、知性の欠如と取るからではないか。いやいや、別の快適さを求めた結果でもあろう。それは住環境や養育・教育費と老後を考えた結果でしょう。知性ある者としての賢明な選択である。教会が、神様の教えに従わず、人間の知性のみによって教会の営みを続けようとすると、すべての非効率なことはなされなくなる。伝道もこちらからは出て行かず、求める者のみを対象とする。日本にある8000の教会は一つに集約され、優れたメッセージが毎日更新され、インターネットで24時間365日視聴できるようになり、牧師不足、献金不足の打開策となる。世界の教会もすべてこのシステムに移行される。教会に毎週集っていたキリスト者が家から出なくなるため、巷では本物のキリスト者に会うことがなくなる。こんなことになってもいいのだろうか。

 

 

 礼拝とは、教会にとっても、キリスト者個人にとっても、神様との間に欠かせない生命線です。それは祈りもみことばも交わりも挙げればどれもであり、霊的生命活動と言うとき、礼拝とは、炭水化物、脂質、タンパク質、ミネラル、ビタミン、食物繊維、あるいは水、酸素なのか、運動なのか、うまく言えませんが、簡単に、手っ取り早く、カロリーとサプリメントだけでうまくいくと言うものではない。主イエスが教え、聖書が教え、主の教会がこれまで培ってきた一つ一つを大切にしたい。その一つが、主と主に贖われた者が顔を向き合わす礼拝なのです。



202469日 主日礼拝 マタイの福音書418-22節、マルコの福音書116-20

「漁師4人、主イエスに従う」

 

 今日の箇所はシモン・ペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに従うところです。マタイとマルコの福音書に記されていますが、マルコが書いた福音書を、マタイもならったということになります。主イエスが4人を招き、4人が主イエスに従う。それぞれたった5節に記されています。

 

 当時のガリラヤ湖での漁獲量が落ちていてみんな廃業を考えていたとか、水質が悪く、魚の売れ行きが悪かったとか、嵐による転覆事故で、死亡事故が多発していたとか、網の原材料費が高騰し、収支が合わなかったとか、体力的に漁師を続けて行けなくなったとか、そうではありません。

 

 主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われた。この言葉に献身する人がいることも確かです。私は、魚を釣ることで感動したり、興奮したりしたことはない。人がイエス様を信じて、イエス様に従うことには喜びを覚えるが、私自身は人間をとる漁師にしてあげようといわれても、そのことばには惹かれない。人それぞれです。

 

 聖書を通して、漁師が単純だとか、大胆だとか、私たちが抱いているイメージと言うものは確かにあるでしょう。危険を伴うので、いのちがけ。のんびりしていたら魚を逃し、いのちを失うので、適切な即断即決が必要。現代では、海のないところでも養殖がなされているそうですが、当時は、海か湖がないと魚は釣れないので、山の上のエルサレムには漁師はいないのは当然。

 

 聖書には決めきれない愚かさや行動しない愚かさや、人の言いなりになる愚かさが記されていますが、ペテロの即断即決が単純さを表さないし、ペテロの失敗が彼の熟慮不足を示さないので、ペテロの単純、従順さを愚かさと同じものにはできません。ペテロの言動はペテロの性格であって、ペテロの知性の高い低いではなく、また、ペテロの言動は主イエスへの愛と熱心を表すものであって、何も行動しない者がペテロを笑うことはできない。そして、アンデレとヤコブとヨハネは同じ漁師でありながら、性格も行動もまたペテロと別な者です。

 

 小学生の頃、漁業を営む家の子は皆無でしたが、中学生の時、もともとの学区に従って転校したら、510%の生徒の親は漁業を営んでいました。だからと言って他の子に比べて気性が荒いとか、大胆不敵とか、知性がなく怖いもの知らずということはありませんでした。

 

 さて、イエス様が直接私たちを召すにしても、天使を介して召すにしても、神様が私たちをあることに召されていることが分からなければ応じようもないのですが、何をおっしゃっているかわかるのなら、召しに応じるのが賢明なのか、辞退するのが、賢明なのか。

 

 大学生の4年の時、バブルで、教会の方が、一人はミッションスクールの高校の教師になりませんかと誘ってくださいました。別の方は、常陽銀行の関連会社に誘ってくださいました。しかし、地元に帰ることを決めていましたので、辞退しました。神学校に入るための準備をしている時、二人の従弟が親切にも、一人は自衛隊に、一人は市役所への転職を勧めてくれました。しかし、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ1626)という聖書の言葉もあり、ぶれませんでした。

 

 神の御子主イエスに「わたしについて来なさい」と言われ、「いいえ。結構です」と言えるとしたら、それはそれですごいことだと思います。「人間をとる漁師」とはいかなるものか、体験してみるのもいいことだと思います。

 

 以前より、期間限定の短期宣教師が大勢います。先日のDAWNの時も、香港からの宣教師が光の子に来てくださいました。日本という国を知り、その日本という国で自分はやっていけるのかどうか、確認する。生涯、主にお仕えするとしても、ある意味、期間限定で、20歳から100歳まで宣教師としてある国で奉仕し、その国に葬られることになっても、生涯という期間が限定されたものです。

 

 「牧師だけは絶対ならない」と決めている人もいるかもしれない。感情を殺し、へりくだって仕える。陰で文句を言われることがあっても、表でちやほやされることは割に合わないと思う人がいるかもしれない。逆もあるかもしれない。おだてられることがあるかもしれない。だけど、先日、コロナ罹患で何を思ったか、牧師の24年間を振り返りつつ、感謝にあふれました。小さなことで感謝したり、喜ぶのは変なことなのかもしれません。ただし、このクリスチャンの比率が少ない日本においても、牧師の働きに皆さんの理解と協力をいただける。マリガンのポスター掲示は断られた。だけど、このテーマは「夫婦や家族の関係回復なんです。これを見て、家族崩壊の危機にある区民の皆様に、回復の希望が与えられればと願ってのことなんです」と、自分では思っていないことまで、聖霊に語らされ、この二言で、渋っていた担当者が顔色を変え、わかりました。判を押してきますからちょっとお待ちください」となるのを見るのって、交渉を普段しない私にとっては神様のご熱心を自らを通して知ることになる。これはすごいことです。

 

 私たちはすでにヨハネの福音書135節以下を見ました。ここにはペテロとアンデレ、ピリポとナタナエルで、彼らはカナの婚礼で水がぶどう酒になったことを体験していた。キリスト抜きでも、生涯は全うできた。しかし、神の御子に出会い、神様ご自身に招かれているのに、それを無視したら、大きな損失であったのではなかろうか。湖で網を打っていて、イエス様に声をかけられても、網を捨てる必要はなかったのではないか。しかし、「彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」ゼベダイの子のヤコブと、その兄弟ヨハネは網を繕っていた。主イエスはなんと声をかけられたのか。同じく「人間をとる漁師にしてあげよう」だったのか。彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

 

 

 ある意味、後継ぎが、父親を残して、主イエスに従うとは。父親を何と心得るか。家業を何と心得るか。しかし、彼らにとっては主イエスの招きのことばが重かった。男性であれ、女性であれ、働き盛りであれ、定年前後であれ、自らのライフプランではなく、主のライフプランの中で、どう生きるか。主の働きのために、その人の体力も知性も経験も豊かに用いられます。しかし、そうしたものがなくても、神様は必要なものを与え、お用いくださることに感謝します。



202462日 主日礼拝 ルカの福音書416-30節「ナザレの拒絶」

 

 皆さんの中には、『みことばの光』をお使いの方がいると思います。冊子にそって聖書を開くと4年で通読でき、その箇所の解説もあるので最初を読む助けとなります。

 

 実は、イエス様の時代は、一人一人が自分の聖書を持つことはなく、会堂に旧約の39巻分の巻物がありました。傷んでくると新しいものにしますが、古いものも脇に保管されます。

 

 よく、キリスト教はユダヤ教から派生したと言われることがありますが、正しくは、神様とアブラハムとの契約があり、それが古い契約で、ユダヤ教は紀元前400年頃に起こりましたが、キリスト教はユダヤ教を経ずそのまま新しい契約に替わってなったと言うものもおります。

 

 ユダヤ人が信仰しているからユダヤ教と思いやすいですが、ユダヤ人以外もいますし、神殿が会堂に置き換えられたり、ささげ物が律法を守るというユダヤ教的な形態も見られます。

 

 ユダヤ人は聖書を大切にしたので、モーセ5書を1年で通読する分量とか、4年で通読する分量が、ヘブル語聖書にはしるしがつけられています。驚きなのは、モーセ5書を他の歴史書、預言書、詩篇よりも重んじていることです。

 

 ルカの福音書4章には、イエス様の生きられた時代のことが書かれています。イエス様は宣教活動をされていたわけですが、16節「ご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」

 

 その町に10人の男性がいれば会堂は建てられ、会堂管理の役割を担う者もいた。聖書は当時印刷ではなく手書きで写していました。羊の皮をなめした羊皮紙に記されることが多かった。古い写本の中にはパピルスの物もありますが、原典は見つかったという報告はありません。

 

ユダヤ人の子どもはモーセ五書を暗唱して一人前の大人となると言われますが、どの子も九九を覚えるようにできることなのか。特別に、信仰に熱心な家庭の子供だけなのか、ここからは判定できません。

 

 イエス様が手渡されたのはイザヤ書。当時の聖書は何章も、何節も書いてなく、読んで内容を把握し、コメントするとするとはどういうことか。例えば、礼拝前の打ち合わせがなく、司会者が聖書朗読し、その聖書箇所から説教するようなもので、説教できる人もいるでしょうがイエス様はよく聖書を知っているということです。

 

 ルカの福音書418-19節はイザヤ書611-2節のことばです。双方を読み比べて違いが生じるのはヘブル語を日本語にした場合と、ヘブル語をギリシャ語にして日本語にした場合の違いです。

また、ヘブル語では「神である主」という表現をしても、ルカは「主」と表現するためです。その文化を知らなければ、そこも踏まえて訳しても、意味をなしません。

 

 さて、なぜ、イエス様はこの1819節に目を留められたのか。不思議です。ここを知っていたとしても、すっとここを開くのは容易ではないと思います。

 

「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、 主の恵みの年を告げるために。」

 

 イエス様はここを読み、解説せず、係の者に巻物を渡され、座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれた。

 

 みことばの宣教は聖書そのものから始まるので、解説のない聖書朗読はダイレクトな宣教です。そして、イエス様が何を言われたか。もし1819節のことばが「わたし」を抜いた「主の霊がある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主は油を注ぎ、遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、 主の恵みの年を告げるために。」であればざわつきはない。しかし、「わたし」=語られたイエス様ご本人とすると、にわかには信じがたい。

 

 21節、イエス様は「人々に向かって話し始められた。『あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。』」という。みんなはイエス様以外はこれになりえないと思う。

 

 22節「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。」つまり、喜びと戸惑い。ところが、単純な人々の喜びが、合理的なリーダーたちの介入によって、制圧されていく。貧しい人に良い知らせが伝えられ、捕らわれ人に解放、虐げられている人に自由の身が約束されても、こうした人々を押さえつけていた人々は彼らが豊かで、自由になることに抵抗する。

 

 さて、人々はイエス様がよそでなされた奇跡をここでも行うことを願う。しかし、この書き方からすると、必死に癒しを懇願しているのではなく、命じている。それはナザレがイエス様の郷里で、その親近感の故なのか。ほかの場所では人々はイエス様にすがるが、故郷では気軽に利用するということでしょうか。神様から遣わされている預言者なのに、幼なじみと取るところに、尊敬も恐れもなく、歓迎とは至らない。

 

 イスラエルの預言者エリヤはシドンのツァレファテのやもめを通して養われ、エリシャもシリア人ナアマンだけがツァラアトを癒された。その理由は彼らもわかっていた。信仰です。主の民が信仰を持たず、イスラエル以外の人に信仰と、それに伴う結果があったとなると、イエス様に対する憤りに満たされた。

 

 

 イエス様はナザレの人々の不信仰を嘆かれたが、彼らが信仰に立つためであった。彼らを馬鹿にしたかったのではない。愛ゆえの言動ですが、彼らは「立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。」ここにナザレの拒絶があります。キリストを愛せない者はどうキリストを愛すことができるのか。難しいといです。一旦激しく憎み、しばし拒絶することなのでしょうか。



2024526日 伝道礼拝 ヘブル人への手紙927-28節「からだの寿命のあと」

 

 先週、私は朝顔教会でみことばを語る奉仕をしてきました。礼拝後、カレーライスをごちそうになり、92歳の先生としばらく歓談しました。

 

 先生のこと、ご本人や周りから何度もお伺いしていますが、正確なことは忘れてしまいます。440代の時に、ご主人が亡くされ、中学生の男の子二人と、小学生の女の子を必死に育てたこと。昼寝はしないとのこと。とにかく動き回ると。薬を飲むより、その分、上質なお肉を食べる。元気に長生きされている方のお話しは参考になります。そして、100歳まで、元気に生きていたいとのことです。100歳どころか、モーセのように120歳の勢いがありました。

 

 関西出身なのに、東京女子大学で学ばれた。英語は短大の時にしっかり身につけたとのこと。関西にもミッション系の女子大学があるのに、なぜか。それはキリスト教史の第一人者であった石原謙先生から学ばせたいという親の願いと、ご本人の希望があって、上京され、後に留学されることとなる。そしてキリスト教教育者として用いられる。神様が志しを与えられ、それに進むとすごいことになることを再確認しました。

 

 話しは変わりますが、本田弘慈伝道師の映画では、教会に来る人の中には、英語習得を目的とする者、ガールハントを目的とする者が出てきます。当然、宗教的目的もあります。宗教的目的と言っても、病気の癒し、人生の意義・目的探し、問題解決、などいろいろあります。

 

 人はなぜ生まれ、何のために、どう生きるのかという問いもあります。神様に造られた人間は、神様との交わりのために存在する。神様と交流するために生きる。神様を礼拝するため、神様を賛美するため、神様に仕えるために生きるのだと聖書は教えます。言い方を変えると、神抜きの人生は、本来の目的にそっていない。

 

 フランスの哲学者パスカルは「人の心には神の形をした空洞があり、どんなことをしても、神以外にその空洞を埋めることができない」と言います。本当にそうだと思います。

 

 宗教を自分の願望達成の利用する人がいます。商売繁盛、家内安全。それはそれでいいとしか言えない。宗教が人間の幸福のために存在するので。しかし、キリスト教では、神様が創造者で、人間は被造物。人間は神様を中心にしたところに置かれる。神様が主。人間はしもべ。こうしたあり方に異を唱えたのが人間の歴史で、神はいてももはや人間の世界に関与しないとか、死んだとか、もともといないんだ、ビッグバーンで宇宙が現れ、生物は進化したのだという考えです。

 

 キリスト教は、一人一人の存在や思想を尊重します。寛容であり、忍耐を示します。ただし、真理や愛は、嫌がられても、間違いを指摘します。危険なものには危険だと言います。

 

 私自身の子どもの頃は毎日が楽しかった。とても充実していた。そして、ずっと、このままだと良いと思っていた。しかし、一つ、どうにも解決できない問題があった。死です。死ぬのは嫌だった。死にたくないと思った。死が怖かった。どうしてなのか。自分をかわいがってくれた元気なお年寄り、といっても50代だと思いますが、交通事故で亡くなった。久しぶりに会って、たくさん遊んでくれた年上のお兄さんが次の日に突然亡くなった。身近な人が病気だけでなく、事故で突然亡くなった。いくら気を付けても、病気や事故に遭うし、健康に努めて長く生きても結局は死をを迎える。恐ろしいし、悲しいし、防げないし、虚しさを覚えます。そして、どんなに子どものことを大切に思う親さえも、この死の問題は解決してあげれない。一緒に途方に暮れるしかない。

 

 ヘブル人への手紙927節に「(そして、)人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ように、)」とある。人生をどう過ごしたか、振り返り、評価される。評価とは、良いことを行なったか、悪事を働かなかったかということでしょうか。実は、人間の罪のために、キリストは十字架にかかり、信じる者の罪を取り除くことはできるが、あなたはキリストの贖い・買戻しを受けたか、そして、あなたはキリストとともに歩んだかという問いです。

 

 聖書には「神はいない」という愚か者のことが書かれているが、あなたの罪を取り除き、罪のない新しい世界に入れていただける救い主キリストに出会わない、無視する人生は実にもったいないこととなります。キリストは友のためにいのちを差し出してくださった。

 

 自動車も飛行機も船もスポーツもルールがあります。ルールを無視すると危険ですし、楽しめない。人生にも基本ルールがあります。モーセの十戒と言いますが、概ね、皆さんの同意を得られると思います。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。むさぼってはならない。ところが、自分が加害者となることは許しても、他人が自分にこうしたことをするのは許さない。また、あなたの父と母を敬え、は守られているか、人それぞれ。守れないのも親のせいにする。これらのことは道徳の範囲となるのでしょうか。日本では比較的守られている。しかし、同じモーセの十戒でも、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」となると、日本では守られていない。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」は、主という神様を知らないので、守られている。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」は人によるが、日本では壊滅的と言っていいかもしれません。造り主を覚えてたたえる日なのに、休む日、遊ぶ日、働く日であって、主は出てこない。

 

 一度にすべてのことに心を向けるのは難しいでしょう。でも、まずは、人となられた神の御子キリストに目を向けましょう。

 

 

ヘブル書928節 「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」造り主なのに、これほど造った者に心を向ける神様を知らないとすると、本当に大切なものを失ってしまうことになります。



2024512日 創立28周年記念礼拝 ヨハネの福音書446-54

「主イエスの第二のしるし」

 

 本日で、千歳烏山光の子聖書教会は、創立28周年を迎えました。神様をたたえ、また感謝します。どんな働きでもそうですが、もし、その働きが、神様から出ていないのであれば、続かなく、神様から出ていないなら続いたとしても虚しい。神様から出ていても、受け止める人がいないと進まない。神様から出ていて、受け止めて、従う人がいれば、苦労があったとしても、主の栄光が現れる。そこには、恵みもあれば、救いと喜ばしい変化があります。そこには祈りと献身があります。

 

 教会の歴史を見れば、神様によってはじめられつつも、問題があって分裂したり、働き人や町の人が減り合併することもある。その中からも、主に教えられ、励まされ、変えられていく。教会は内部の問題だけではなく、外部の問題によって、活動できないこともあります。政治の介入、戦争や放射能汚染、新型コロナウイルスも、原因となりました。異端やカルトによる攻撃もある。奇跡を見ることによって、また、論理的ではあるがだまされることがある。クリスチャンであるのに、罪を犯してしまうのは、あなたにも、牧師にも、教会にも霊的な力がないからだとか、再臨のキリストは女性であるとか、熱心なクリスチャンでもだまされる。だから、聖書の教える救いの確信に留まり続けることが大切です。こうした意味で、いつでも神様とともに、神様に従っていけると幸いですし、助け導いてくださる神様に感謝です。

 

 さて、ヨハネの福音書は、イエス様が「わたしは○○である」と語ります。同じ内容は一つとすると6:48 わたしはいのちのパンです、8:12わたしは世の光です、8:58『わたしはある』なのです、10:7わたしは羊たちの門です、10:11 わたしは良い牧者です、10:36 『わたしは神の子である』、11:25「わたしはよみがえりです。いのちです、15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝ですと8つあります。また、ニコデモやサマリヤの女など、1対1で個人的に対話されるところもあります。そして、カナの婚礼での最初のしるしから、ラザロのよみがえりまで、7つのしるしが記されています。今日は王室の役人の息子の癒しで第二のしるしとなります。

 

 私たちはただ聖書を読むこともあるかもしれませんが、書く方は、ただ書くのではなく、何をどう描くのか、聖霊の導きと助けのもと、書いています。しかしイエス様はなぜカペナウムからカナに行かれたのか、記されていません。私たちに考えさせるためでしょうか。カナとカペナウムは30㎞離れています。カペナウムは交通の要所かつ、ローマ軍が駐留していましたが、王室の役人もいた。その息子が死にそうになった。

 

 百人隊長は、自分の部下のために、イエス様に治るように、命じてくださいと言いましたが、この役人は、自らイエス様のところに行くのは良いが、イエス様が来てくださって、癒してくださるようにと願った。来てくだされば、癒されるかもしれない。裏を返すと、来てくださらなければ癒されないと考えたのでしょう。私たちも、見たり、触ったりすれば、効果があり、見えなければ、触れられなければ効果なしと考えることもあるかもしれない。

 

 48節、イエス様は彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」イエス様は役人に言っているが、人間と言うものは総じて、しるしと不思議を見ない限り、信じられないという。そのことに、不満を表しているのか。人間の性質を言っておられるのか。だけど、ヨハネの福音書でも、使徒の働きでも、しるしと不思議が記されているということは、神様は、私たちが信じることができるように、しるしと不思議を行ってくださる。しかし、しるしと不思議を見ずとも、信じることが必要な場合もあります。

 

 王室の役人は「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」と言う。緊迫していたのでしょう。イエス様は「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言います。ここで、「イエス様。あなたが来てくださらなければ治りません」とは言いませんでした。その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。

 

 私たちも、「この病気は、あなたが天から降りて来なければ、治りません」とは言いません。イエス様が来てくださると心強いですが、イエス様が癒してくださると信じて祈るわけです。

 

 役人がカナからカペナウムへ向かう途中、自分のしもべに会うわけですが、息子さんが癒されたから、迎えに来た。子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。

 

 家の者たちとは、役人の家族だけではなく、この役人に仕えるしもべたちすべてを指します。何とも言えませんが、家の者たちがどれだけ、主体的に主イエスを、力ある神の御子救い主と信じたのか。主人である役人が主イエスを信じたので、当然のこととして信じたのか。でも、やみくもに信じたのではなく、ご主人の息子さんが死にそうな病気で、イエス様の関与で癒されたことと、「あなたの息子は治る」と主がおっしゃったときと、治された時間が一致したことに、確かなことを覚えたと思います。

 

 水がぶどう酒になったのはカナでのこと。これが第一のしるし。第二のしるしはイエス様がカナにはおられたが、癒された人はカペナウムにいた。

 

 この息子が癒されたのは、息子がイエス様の癒しの力を信じて癒されたのではなく、父親の行動と信仰による。もちろん、イエス様が癒してくださらなければ、父親が世界を一周しようが、逆立ちしてカペナウムからカナに行ってもダメ。後に見ますが、中風の男性が癒されたのも、担架にその人を乗せ、大勢の人を水平にはかき分けられなく、屋根に上って、そこから垂直にイエス様の面前につるし下した4人の友の信仰によります。

 

 癒しと信仰は、体系化できない。こうしたら癒されるという法則はない。しかし、イエス様だったら何とかしてくださるという期待と行動によりもたらされる。しかし、こちらが信仰を持ち、行動を起こせば、必ず癒されるというのでもなく、すべて神様の主権のもとになされる。

 

 

 癒されなくても信じる、ということは難しいこと。癒されると信じて祈る。結果についてはお任せです。こうなったらどうしよう。こうならなかったらどうしようであれば、自分本位ですが、万事を益としてくださる神様にお任せするので、神様への信頼であり、信仰です。



2024年55日 主日礼拝 ルカの福音書4章1415節、ヨハネの福音書443-45

「主イエスのガリラヤでの説教」

 

 本日は、DAWNに参加の皆様も加わってくださり、歓迎いたします。DAWNがなければ、御国以外では、出会えなかったかもしれません。

 

 さて、今、光の子での礼拝メッセージは、4つの福音書並べて読んでいます。同じようでいて、違いもあります。そこで見えてくるものもあります。

 

 イエス様を理解するのに、イエス様のなさったことからみる場合と、イエス様が話されたり、教えられたことからみる場合と、合わせてみる場合とがあります。イエス様のなされた説教は、教えでもあり、山上の垂訓と言われるマタイの5-7章は有名かつ、記憶に残りやすいところです。それは、人間の常識、経験、道徳とは違う面があるからでしょう。しかし、この有名な説教の前に、最初になされたのが今日のガリラヤでの説教です。

 

 今日の招詞と交読文と聖書朗読は、4つの福音書が重なるところです。場所はガリラヤでした。マルコでは、バプテスマのヨハネが捕らえられたことがきっかけであることを示します。それは同時に神様の時が満ちたということでもあります。ヨハネから主イエスにバトンが渡されたと言ってもいいと思います。霊的な交代でした。それは古い契約から新し契約への移行でもありました。だから、記念的説教でもあります。

 

 マルコでは神の福音とあり、神様からの良き知らせ。神の国とは神様のご支配ですが、それを嫌がる人もいます。しかし、サタンによって、罪が人々の心と生活を支配するのがいいのか。愛と恵みに富む神様がご支配されるとのどちらがいいのか。目先だけではなく、後先を考えることが大切です。

 

 悔い改めて福音を信じなさいとありますが、悔い改めは、近づいて来た神様のご支配に対して、抵抗し、拒絶をするか、あるいは自分勝手な生き方を改めるか。良き知らせを信じないままなのか、受け入れるのか。葛藤しても、受け入れるのが賢明です。

 

 マルコでは2節で語られている内容をマタイは6節で語ります。主イエスがガリラヤに来られた事情はヨハネの逮捕でした。カペナウムはガリラヤ湖に面した町です。12部族に分けられた土地で言うとゼルブン、ナフタリの地。イエス様がお育ちになったナザレもガリラヤですが、ここについては、ヨハネの福音書では、「イエスご自身、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言なさっていた。」その人の生まれ育ちのわかる住民にとっては、その人物が神様のことばを語るといっても、受け入れがたく、神の子だとなれば、なおなお受け入れがたいということ。預言者やイエス様のお育ちが悪かったというのではなく、あまりにもよく知っているが故、神様のことばを直接語るということには受け入れがたいのでしょう。イエス様が真面目に語られても、ナザレの住民がニタニタしていたらやりづらいこともあるでしょう。また、故郷を単にナザレと言えるのか。ユダヤのことを言うのではないかとも考えられます。しかし、これが宣教しない理由とはならない。また、これらを根拠に、私たちの郷里伝道は難しいとか、育てられた教会で教職としての働きはできないというのではない。そこで育てられた人が、そこで用いられるのは素晴らしいことだと思います。もちろん、人の思いを越えて、神様はだれを、どこでお用いになるか、そこに従うのが一番です。

 

 ヨハネはいつもユダヤ人の祭りを意識しているので、時期が見えてきます。このように、誰かが、日にちとか、時間とかにも、周りの様子などにも関心を持って記していると、後で振り返った時、助けになりします。

 

 ルカは、更に、イエス様がどういう状況でガリラヤに行ったか、記しています。主イエスが、逮捕されては困ると思って逃げ移ったのではなく、御霊の力を帯びつつ、導かれて、ガリラヤに行かれた。その結果、「その評判が周辺一帯に広まった。イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。」と記しています。もちろん、人々の評価よりも、神様の命じられることに従うのが一番です。しかし、導きに従った幸いな結果もあれば、バプテスマのヨハネのように神様に従って、逮捕されることもあり、主イエスも十字架でいのちを取られたので、その時の人々の評判は、ひとつの視点でしかありません。そして、ヨハネも「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とありますが、6章では大勢の人が信じつつも、弟子たちの多くがイエス様から離れ去り、イエス様が大勢の歓迎のもと、エルサレムに入城した時も、十字架につけろと叫ぶ者になった者もいます。周りの反応に合わせているだけだと確かに熱のあるところからエネルギーを得られる。逆に、間違うこともある。そして、一人になると冷めてしまうこともある。しかし、神様がその人のうちにおられると、神様の力は失われない。

 

 聖書にしるされているイエス様を知り続け、そのイエス様に留まり続ける、イエス様と交わり続けることが大切です。

 

 マタイの福音書は一義的には、ユダヤ人に向けられて書かれているので、イエス様の行動を預言者イザヤの成就として、捉えています。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」この聖書箇所は、マタイでは主イエスの宣教開始と理解し、ルカはメシアの到来と捉えますが、どちらも正しいわけです。

 

 4つの福音書の存在意義は、単に、それぞれの記者の視点の違いを示すのではなく、全体を正しく捉えるために必要であることを思います。4人の聖書記者だけではなく、教会にいる一人一人の存在も、神様の、人々に対する愛と憐みの深さを表しています。つまり、豊かで、深く、変わらないこと。

 

 

 「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」とありますが、このことは、やがて宣教の完成、終了があること、そして次の段階に入ることを意味します。キリストの再臨は2000年近く語られてきましたが、再臨はないのではないかと思う者に、衝撃をもたらす。もちろん、主イエスの再臨を待望している者にも、大きな喜びと慰めをもたらします。聖書にあることを信じて来た者と、否定して来た者とでは、同じ現象が別の結果をもたらすことになります。


2024428日 伝道礼拝 ヨハネの福音書439-42節「世の救い主」

 

 聖書には何が書いてあるか。簡単に言うと、「神、罪、救い」です。それだけではないですが、神様の存在と、神様によって造られた人間と、その人間が罪を犯し、その結果、罪に苦しむ。その解決として、神様がご自分一人子イエス・キリストを救い主としてお遣わし下さったとあるのは確かです。 ただ、人間は、神様の存在がわからない。自分がなぜ存在するのかもわからない。自分の至らない点が分かったとしても、罪があるとは大半の人は思っていない。だから、世の中にヒーローはいても、日常生活では救いとか、救い主の必要性は感じていない。

 

 このヨハネの福音書4章に登場するサマリアの女と言われる女性は、結婚で言えばバツ5の女性でした。バツ5の理由は書いていないので、想像してみると、容姿は良いがお金遣いが悪かったとか、器量は良いが料理がひどかったとか、彼女自身には文句の付け所はないが父親が家に出入りし難癖付けて困っていたなどの、何らかの事情があった。何度も離婚を繰り返すと、町の人が私のことを悪く言っているのではないかと思って隠れるようになる。不確かな思い込み。隠れると、良からぬ事情があるのではないかと町の人々は思っていたかもしれません。不確かな勘ぐり。 だから、町の女性が水を汲む朝晩の涼しい時をあえて外して、人々が家の中で涼んでいる暑い時に水を汲みに井戸に行く。そこでばったり、旅の疲れで井戸の脇に座っている主イエスに声をかけられ、生ける水のことを話したり、夫をここに呼んで来なさいと主イエスに言われ、夫はいないと答えると、あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではありませんね、と言われてしまう。それは確かである。それでこの女は主イエスを預言者かと思う。

 

 そして、神様を礼拝する場所に関する話題から、場所ではなく、御霊と真理によって神様を礼拝することを教えられ、キリストと呼ばれるメシアが来ることを知っているというと、あなたと話しているこのわたしがそれですと聞いて、驚きます。

 

 彼女は、自分のことを言い当てた人がいて、その人がキリストではないかと、今まで関りを持たないようにしてきた町の人々に話しました。

 

 キリスト教では、「信じる」ということに関して、厳密です。例えば、「神の存在を信じる」というだけでは、キリスト信者とはなれません。その神とはどういう神なのか。聖書に書かれている、唯一にして、天地万物の造り主であることを信じる。しかし、この神様と関係が持てるのは、神様を知らず、神様を認めず、神様に背いていた原因である自分の罪を認め、悔い改め、その罪のために、十字架にかかり、死んで下さり、よみがえられた主イエス・キリストを救い主として信じ、これからは神様とともに歩むことを決意して、従うことによって、神を信じるということが成立します。

 

 では、このサマリヤの女性は、神様を認め、罪を認め、イエス・キリストを救い主として信じたのでしょうか。そこは聖書に記されていない。これから深められていくのでしょう。

 

 サマリアの人々は、29-30節、この女性に、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言われ、町を出て、イエスのもとにやって来た。そして、39節、「その町の多くのサマリア人が、『あの方は、私がしたことをすべて私に話した』と証言した女のことばによって、イエスを信じた。」とありますが、イエスを信じたとは何なのか、具体的には書かれていません。町の人と付き合いの薄い女性が、自分の過去を言い当てたユダヤ人が井戸端にいたということは、見て信じることはできる。

 

 この女性が、結婚を5回して、5回ともだめで、今は同棲中というのは、言いたくない、触れられたくないことでしょうし、サマリアのその町の人々から遠ざかっていたのも事実です。この女性の言動を変え、生き方を変えるような出会いが主イエス・キリストとの間でなされたのも、このイエスという人物のうちに何かしらの力があることも彼らは認めたのでしょう。そして、この方がキリストなのでしょうかという問いに、確かに、キリストに限りなく近いだろうなと思ったでしょう。しかし、それを、「イエスを信じた」と言っていいのか。厳密さに欠けるのではないか。

 

 サマリアの人たちが願ったのは40節、「自分たちのところに滞在してほしい」ということ。そこでイエス様は、二日間滞在されました。これは十分なのか。私からすれば、不十分過ぎる。しかし、41節、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。この中身も不明です。ただ、イエス様と3年半一緒に弟子たちのイエス様理解も不十分。ところが、弟子たちも、サマリアの人々も、やがて聖霊の内住によって、聖書の理解を深め、キリストの証人となります。

 

 パウロという後にキリストの使徒となった人物も、聖書の知識は深いものでした。ところが、当初、キリスト教に反対し、迫害しました。聖書をよく知っているはずの祭司や律法学者も当初イエス・キリストを拒絶しました。ところが、キリストとの出会い、そして助け主である聖霊がその人のうちに住まわれると、聖書に書かれていることが分かる。実行する力もいただく。一瞬で変わる時もあれば、徐々に変えられることもあれば、生涯にわたり、教えられ、導かれ、助けられる。

 

 本人が「私は大丈夫だろうか」とか、人が「あの人大丈夫だろうか」と、心配し過ぎることはない。神様に祈ることも、助けることもできるし、神様ご自身が働かれる。

 

 42節、サマリアの人々の信仰は、サマリアの女の語り掛けがきっかけではありました。しかし、すぐに、「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」と言います。

 

 世とは、この世界です。罪の世界です。救い主とは英語でsavior、ギリシア語でソーテール。保護者、救出者。動詞のソーゾーは死、危険、困苦から守る、救う、病気を治す、永遠の死・滅び及びその原因である罪から救うことを意味します。

 

 罪とその結果を知らなければ、救いの必要性はわからないでしょう。人間は精々100年生きればそれで終わりと思っていれば救いは要らないでしょう。

 

 

 ユダヤ人だけでなく、サマリア人が最初に思い浮かべたキリストは、ローマの圧政からの解放者だったかもしれない。しかし、人の過去だけではなく、将来も見通せるキリストを間近にし、イエスをキリスト、救い主として信じました。あなたはどうでしょう。


2024年4月21日 主日礼拝 ヨハネの福音書4章27-38節「霊的収穫」

 

 いつの時代でも、自分の知っている人が、自分の知らない人と話していたら、誰だろう、何を話しているのだろうと思うことが多いと思います。そして、知らない人が異性であれば、何かを疑うわけではありませんが、ますます気になるところかもしれません。 弟子たちは、食物を買いに町に行き、戻って来て、主イエスが女の人と話しているのを見て、驚きます。ただし、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う弟子はだれもいなかった。

 

 一方、女の人は、水を汲みに来たのに、水がめを置いたまま、いつもは、人々から距離を置いていたのに、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言う。私の過去を言い当てたすごさと言うより、この方はキリストなのでしょうかということに、関心が移っています。 暑い真昼頃なので、人々は家にとどまっているのですが、「この方がキリストなのでしょうか」という声に、人々も関心を持ち、イエス様のもとに押し寄せます。

 

 弟子たちは、「先生、食事をしてください」と勧めています。面白い対比だと思いますが、弟子たちはいつもキリストとともにいるので、いつも通り、食べている。しかし、町の人々は休むことを切り上げて、キリストのところに押しかける。 日常の生活は大切ですが、恵みの中にいる者は、時に、その恵みを忘れてしまう。逆に恵みに溢れると日常を忘れてしまう。本当は日常も恵みも、どちらも大切なことです。

 

 イエス様は、旅の疲れで、井戸端にお座りになっていたのに、この女性と対話し、そのことを喜ばれ、「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」という。 弟子たちは、「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」と考える。もしかするとあの女性が、何かくれたのかと。 人となられたイエス様にとっては、動けばお腹もすくし、疲れも覚えられるが、「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」、御父の願っていることを成し遂げることは、霊的な食物であると言う。

 

 空腹を感じても、食事より先に取り組みたいこともあり、成し遂げることで、喜び、満足することもある。では、何がイエス様の心を満たしたのか。それはあの女性がキリストであるご自身に出会ったこと。そして、神様を礼拝するとは、伝統や場所に基づくのではなく、御霊と真理によるということを理解し始めたこと、そして、人を避けていたこの女性が、水がめを井戸の横に置いたままでも、人々に、キリストを伝えようとしたことでしょう。

 

 彼女にとって、井戸端でお会いした方が、キリストであるという確信はどれほどか。初めは預言者であると思っていた。しかし、次第に、キリストであろうと、確信を深めつつも、断言せず、町の人々に、「この方がキリストなのでしょうか」と問うています。

 

 もし彼女が「私はキリストに出会いました。皆さんも会うべきですよ。」と断言し、キリストに会うように指示していたら、人々は拒絶したかもしれません。キリストかどうか、判断するのは皆さんで、今井戸のところにいるので来て、見てくださいと勧める。

 

 この「来て、見て」というのは、聖書にある、キリストに出会う1つのパターンで、ピリポもナタナエルに「来て、見なさい」(ヨハネ1:46)と言っています。イエス様が天に上られてからは、連れていく場、見てもらう対象は、イエス・キリスト本人または、イエス様を信じ、イエス様に従う人々であったり、その人々が集う教会です。そして、見ることから、福音を聞くこと、聖書を読むことに移った部分もあります。見ることも、聞くことも、信じるためのステップとなっています。考えることも、信じる助けにはなりますが、聖書の素材がなければ、キリストを信じるには相当な時間を要し、救い主にたどり着かないこともあるでしょう。

 

 35節から「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、麦の収穫のことにかけて、霊的収穫のことを言っています。つまり、人々の救いのことを言っています。サマリアの女性がその一人、そして、彼女がキリストではないでしょうかと町の人々に言うと、他にもキリストを信じる人が起こされる。みんなキリストの到来を求めていたわけです。

 

 耕作物が収穫を迎えるには、種を蒔き、芽が出て、茎が伸び、実を結ぶまで、相当の時間がかかることです。水がぶどう酒になるにも、相当の時間がかかります。人がキリストを知るにも相当な時間がかかると私たちは思っているかもしれません。人間的な判断で、あの人はまだまだとか、あの人はもうそろそろとか、こちらが思うことがある。しかし、サマリアの女はキリストに出会った即日、信仰に到る。十字架にかけられていた強盗の一人も当日。聖書を見ると、出会って、すぐ信じる人が多い。それは、キリストに直接会っているということもあるでしょうし、キリストの偉大さに触れると、他のことは些末なことになるのかもしれません。

 

 私たちは、物の表は見れても、中は見れない。それで通常は色づきや大きさで、収穫までまだ四カ月あるな考える。しかし、人々の中には、主イエスをキリストとして信じ受け入れる状態になっている人もいる。36節の蒔く者と刈る者とは、種を蒔く者が畑の所有者か、小作人で、刈る者は収穫時に報酬を得て手伝う者が刈る者です。収穫物は種を蒔いた者の物となり喜び、手伝う者も収穫と報酬を喜ぶ。他の箇所では種は神のことば。種の蒔かれたところはそれぞれの心。神のことばを聞いて、実を結べば、種を蒔いた神も、種を蒔かれた人も喜びに到る。

 

 主イエスの弟子たちが、キリストを信じる人々を集めたとしても、弟子たちが苦労して。種を蒔いたのではないこともある。だけど、収穫に立ち会うことはある。他の人たちがキリストを証し、祈り、愛を示し、信仰のスタートには別な人が立ち会うということもある。しかし、人が神様に立ち返るということは、どちらにとっても大きな喜びです。主イエスが「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」とおっしゃるのは確かです。

 

 さて、マタイの福音書9章35-38節に、「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」と言われます。

 

2024414日 主日礼拝 ヨハネの福音書41-26節「井戸で女に話しかける主イエス」

 

 ヨハネ41節、パリサイ人たちが、イエス様やヨハネの様子を把握しています。すごい人たちと思っていたか、気にかかるというか、考えようによっては厄介者だったかもしれません。逆に、イエス様は、この時はパリサイ人たちとの関りを避けてガリラヤに向かいます。新改訳聖書2017では、地図12で「使徒たちによる初期の宣教」が記載されていますが、第3版まではキリストの初期旅行、ガリラヤ伝道、キリストの後期伝道の3つの地図が掲載されています。これらを見るとエルサレムからサマリヤを通過して、ガリラヤに行く。尾根伝いで、最短距離となる。しかし、ユダヤ人は、外国人と結婚して、12部族の純潔を守らなかった北イスラエルの人々、サマリア人との交流を避け、サマリアの町を通過することも忌避していました。

 

 ある意味、イエス様は伝統に縛られないお方。別な意味で、旅程を短縮するので合理的です。5節スカルというサマリアの町のヤコブの井戸のところで、イエス様は旅の疲れで、お座りになった。第6時は大体正午です。十字架上でのイエス様の肉体の痛み、のどの渇き、お昼ごろとの関係でこの箇所を見る人もいます。時期は不明ですが、一般の人は暑い真昼を避け、朝晩の過ごしやすい時に作業をしていたとすると、この時間帯は、みんなは家の中にいる。だから、人に会いたくない人にとっては、暑くても活動しやすい時間帯となる。

 

 サマリアには他にも大勢の女性がいましたが、「サマリアの女」と言うとヨハネの4章に出て来るこの女性を思い浮かべます。この女性は人を避けて暮らしていた女性でした。イエス様が井戸のところにいても気にしなかったのは、男性が女性に声をかけるのは、よろしくないとされていたからです。しかも、この女性から見て、イエス様がユダヤ人だということが分かる特徴を持っていたのでしょう。この辺じゃ見かけない顔と言うのか、真昼間に自宅ではなく外にいるというのは旅人かとか。だから、この女性からすると、イエス様に何かご事情があってそこに座っているが、近寄っても、声をかけられることはないと思いつつ、井戸に近づいた。

 

 すると7節、あろうことか、主イエスがこの女性に「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9節、そのサマリアの女は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と言った。

 

 イエス様は単に疲れて、のどが渇いて、この女性に水お求めたのか。いや、この機会を用いて、関わってくださっている。10節、「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」と言う。

 

 もちろん、この女性は、神様の賜物も知らず、水を求めていた方がどなたかもわからなかった。何も知らなかったので、求めることもなかった。それでも、イエス様が関わってくださった。

 

 「その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」とは、主イエスが私に水をくれることだとして、この女性の思いは、「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」と言う。彼女にすれば、この井戸を掘りあてたヤコブは偉大ですが、あなた様は、ヤコブより偉大なのでしょうかと聞く。

 

 13節もイエス様は「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言って、のどや身体を潤す水ではなく、心の中で湧き出る泉を言っています。それは霊的いのち、聖霊の働き、そこからもたらされる喜びや力も含まれるでしょう。神様との生き生きした関係を言っています。しかしこの女性は15節、「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言う。思考のレベルが違う。それでも、イエス様は関わってくださる。

 

 イエス様は彼女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言う。なぜ、夫が来なければならないのか。この女性との対話のために語られた。「私には夫がいません。」イエス様は「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」と言われた。会った最初に、こんなことを言われると心が閉じる。しかし、やり取りの中で、彼女が人を避けている事情も、そしてイエス様がこの町に来られた理由も、この女性やその周りの人々がどうなっていくか、明らかになっていきます。

 

 それで彼女は「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」と言う。列王記第一に、ソロモンの子レハブアムがこれまでの税金に対して、軽減せず、むしろ増加すると宣言し、ヤロブアムのリードのもと北の10部族が離脱します。神殿がエルサレムにしかないので、またエルサレムに行くのではないかと懸念し、シェケム、後のサマリアを中心とし、金の子牛2つを作りベテルとダンに安置しました。それでサマリア人はその地で神様を礼拝しますが、これも対立の原因となりました。この問題に対して、21節、イエス様はどこで礼拝するかではなく、だれを礼拝するか、どのように礼拝するかを教えます。彼女は聖書そのものが教えることよりも、伝統に従っていました。素晴らしい伝統も、どこかで人の考えが混じり込んでしまう。だから、礼拝や信仰についてに大切なのは、神様ご自身がご自身について記されている聖書、そして、23節、御霊と真理です。別訳では「霊とまこと」です。それがイエス様の来臨以降、続けられています。

 

 この女性は「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。」と言います。そして、イエスは「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と語られる。「エゴ― エイミー」。すごい方に、すごいかたちでお会いします。そして、目の前のユダヤ人の男性から預言者、そしてやがて来られるキリストと呼ばれるメシアに対面します。

 

 

 主イエスは、わざわざサマリヤに来られた。ある面、非常識な時間帯に来られた。本人が周りの目を避けて行動していたこの女性に会われた。もちろん、イエス様はこの女性がどういう女性か、そのこともよくご存知で出会ってくださった。私たちがイエス様にお会いしたのは、別な時、別な場所、別な形であったことを思います。それぞれの状況も違う。しかし、イエス様は私たちからご自身を隠されたのではなく、現わしてくださり、私たちが信じることができるようにして下さった。本当に感謝なことです。造り主にして救い主なる主イエスとの出会いは、御霊と真理の礼拝へと私たちを導きます。もちろん、御霊と真理の礼拝を通して、私たちは神の御前に進み、主の臨在に包まれます。


202447日 主日礼拝 ペテロの手紙第一 25節「あなたがた自身も」

 

 新しい年度が始まり一週間となりました。新しい学校、新しい職場、新しい環境で過ごされている方もいると思います。緊張もあるかもしれません。疲れもあるかもしれません。主の導きと支えを祈ります。

 

 様々な目標に向かって頑張っている方もいると思います。まずはスタートラインに立ち、ゴールを目指す。ところが、スタートラインに立つことが当面の目標であるのは良いのですが、そこが最終目標になると先に進めなくなります。学校は通過点です。会社は生活を補います。

 

 「クリスチャンになる」というのも、ゴールとは言えない。「あの人のようなクリスチャンになりたい」と思う人もいるし、「あいつがクリスチャンなら、地獄に行っても、俺はならない」と言われることもあります。当然、「あの人のようなクリスチャンになりたい」と思っても、洗礼を受けただけではなれない。聖書に教えられ、祈り、祈られ、主に導かれ、一瞬ではすまない時間の積み重ねが必要です。そして、「あいつが」という人も、信仰の姿がわかっていない。

 

 というのは、救われるのは、善人が救われるのではなく、罪人が救われる。そして、罪人が善人になったら救われるのではなく、キリストが、死ぬべき罪人のために、身代わりに十字架にかかってくださったことを、感謝しつつ、自分の罪を悔い改め、主イエスに頼ると、救われ、そして、キリストに似ていくもので、これも一瞬では完成しない。

 

 教会に来られる方の中に、人生の目的を求めて、集われ、信仰を持つ人もいれば、離れていく人もいる。教会に留まる人は、人生の意味が分かった人々と言えます。神様に出会い、神様とともに歩むのが人生だと。その通りですが、例えば、神様と一緒の人生は、つらいこと、悲しいことはなく、いつも楽しいものだと決め込むと、失望し、力を失う。なぜなら、ヤコブの手紙125節に「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」とあり、神様とともに歩む者にも、神様が私たちを「何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者と」するために、試練を通されるからです。

 

 今年の年間聖句をペテロの手紙第一25節の「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」としました。ペテロは3年半イエス様とともに歩みました。比較的、思ったことを言う、大胆な人物でしたが、誤解や失敗も目立つ人物でした。しかし、このペテロがやがて教会のリーダーになる。13節には、キリストにあって新しく生まれること、生ける望みを持つこと、5節で救いの獲得を述べますが、6節に様々な試練の中で悲しまなければならないとも述べます。しかし7-9節「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」と、自分の経験に重ねて語っています。9節にはすでに得た救い、5節ではやがていただく救いについて語ります。キリスト教がわかりづらいのはこの「すでに」と「やがて」の2面があるからです。しかし、大概のことにもスタートとゴールはあります。

 

 ペテロの手紙は、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している」クリスチャンに向けて書かれていますが、2章では「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と語ります。クリスチャンとは善良であろうと勝手に決めてしまいやすいのですが、悪意、偽り、偽善やねたみ、悪口を抱いてもなお、クリスチャンです。ただし、そのままで良いというのではなく、それらを捨てて、神のことばである聖書を慕い求め、霊的に成長しなさいと。救われるか救われないか、最後まで分からないというのではなく、救いにふさわしく、整えられなさいという意味です。

 

 私たちは主イエスがいつくしみ深い方であることを味わっていますか。罪人の救いのために、罪のないイエス様が十字架にかかってくださったのは最大のいつくしみです。霊的成長がゆっくりで、ペテロと同じく、いやペテロ以上に誤解や失敗があっても、お見捨てにならないのもイエス様のいつくしみ深さです。イエス様は、同族民のユダヤ人に、いつくしみではなく、嫉妬の故に十字架にかけられ、殺されました。祭司長たちにとっては、あんな奴いらないと捨てられた。しかし、イエス様は「人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。」

 

5節「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となり」なさいではなく、「なります」と語ります。それが神様の御旨です。「あなたがた自身も」とは、「生ける石として霊の家に築き上げられ」ということなのか、「人には捨てられたが神には選ばれた」ということなのか。どちらも含むと思います。いや、自分自身が自分を捨ててしまったこともあるかもしれません。「こんな自分、何をやっても駄目だ。人にも親にも、誰にも喜んでもらえない」と。自分が自分自身を喜んでいないのだと。

 

 

幸いなのは、自分や人が捨てようが、あなたがた自身も「神には選ばれた、生ける石です。」神様は、あなたと私を用いて、主の教会を建て上げるのです。神様には私たちも大切な石です。9節にも神様の預言的宣言があります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」こちらは断言です。ではパウロが書いたローマ人への手紙121節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」これと矛盾するのでしょうか。前者は事実をのべ、後者は私たちにその自覚、決意を求めるものであります。ここも聖書の特徴ですが、聖書は本来あるべき姿を示しつつ、それら向けて、歩めるように私たちを励まします。つまり、いつも神様の近くにいる祭司であり、神様と人々の仲介者として祭司であるという事実を示し、この自覚をもって歩むように示しています。「自分は献身していない」と思う人もいるかもしれない。しかし、神様に背くことを捨て、神様に贖っていただいたなら、私たちの所有者はもはや私ではなく、すでに神様なのです。直接献身とか、間接献身という言い方もありますが、いずれも神様に喜んで仕えるように促しています。


2024331日 イースターファミリー礼拝 マタイの福音書27622815

「主イエスのよみがえり」

 

 イースターおめでとうございます。「イースター」という言葉は聖書には出てきませんが、イエス様がよみがえられたことを言います。そのことは聖書に書かれています。

 

 「よみがえる」とは、「死んだ人が、また息を吹き返す。生き返る」ことを言います。死んだ人は黄泉の国に行く。そこから戻ってくることだとも言われます。「よみがえる」はギリシア語はエゲイローです。ただ、「起こす、立たせる」という意味もあって、寝てた人を起こすという意味にも取れますが、「死人の中から」起こすとは、死んでいた人をよみがえらせるということです。

 

 十字架にかけるとは、殺すことを意味していました。2750節に「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」とあり、死んだことを意味します。マルコでは1537節「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた」とありますし、アリマタヤのヨセフが、総督ピラトに、イエス様のお身体を下げ渡してくださいと願い、「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。」とあります。そもそも、死んでいない人を介抱するのはわかりますが、お墓に入れちゃうのは失礼ですし、亜麻布をぐるぐる巻きつけると重くて、かろうじて生きていても死んでしまいます。イエス様は、おっしゃっていた通り、すべての人の罪のために、身代わりに死んでくださいました。

 

 祭司長とパリサイ人は、自分たちの姿を非難し、人々の注目を浴びていたイエス様に嫉妬していました。それで、邪魔者イエスを殺してしまいましたが、イエス様は私たちを救うために十字架にかかられました。

 

 イエス様はご自分が三日後によみがえると言っていました。そんなことはないと祭司長たちとパリサイ人たちは考えていました。精々、できても、弟子たちが、死んだ主イエスの身体を墓から盗み出して、「私たちの主はよみがえりました」と騒ぐことぐらいだろうと思っていました。だから、お墓に番兵をつけて、盗まれないように見張らせていました。

 

 イエス様が十字架にかかられたのは金曜日の朝9時で、息を引き取られたのが午後3時。日が暮れたら、安息日のため、働くことを禁じられていました。だから、イエス様の埋葬は仮でした。日曜日の朝早く、日が出て、マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエス様のお身体に、改めて、丁寧な埋葬の施しをしようとして、イエス様が入れられたお墓に行きました。

 

 「すると、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからです」。主の使いの姿は「稲妻のようで、衣は雪のように白かった。」とあります。ローマの番兵は大きな地震で恐ろしかったのか、主の使いを見て震え上がったのか、死人のようになってしまいました。

 

御使いは女たちに「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」と言いました。

 

二人のマリアたちは「恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」とあります。死んだイエス様がよみがえられたというと、なんだか恐ろしかった。でもとっても喜んだ。

 

福音書によっては、書き方が違って、イエス様を園の管理人だと思ったとも記していますが、マタイでは、イエス様がマリアたちに「おはよう」と言った。ギリシャ語では「カイレテ」ですが「喜ぶ」という言葉の命令形で、「喜びなさい」と言いいます。人と会う時はようこそ、おはよう、こんにちは、今晩は、ごきげんよう、別れるときはさようなら、ほかにおめでとう、万歳にもなります。今は朝だから「おはよう」ですが、別な訳でもいいと思います。実はマタイの2649節では、同じ言葉が、ユダからイエス様に発せられ「こんばんは」となっています。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエス様もマリアたちに「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」と言います。

 

私たちは人々に教えたり、病気を癒したりされたイエス様に会ってはいません。十字架にかかられて死なれたイエス様を見ていません。しかし、罪と死に対して勝利し、よみがえられたイエス様を信じています。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」は、マタイの福音書の最後の3節の大宣教命令に重なっています。

 

イエス様の身体が盗まれないように見張りをしていた番兵たちの何人かは、起こったことすべてを祭司長たちに報告します。すなわち、地震があり、主の使いが現れ、イエス様がよみがえられたこと。祭司長たちは長老たちとともに集まって話し合いをし、兵士たちにたくさんの金を渡し、嘘をつかせます。「弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行ったと言いなさい。」と。番兵は寝てはいけない。寝ていたら誰が盗んだかわからない。そもそも弟子たちがイエス様の遺体を盗まないように番をしていたのに、武器を持たない弟子たちに遺体を盗まれたのであれば、番兵は全くの役立たずとなり、処罰を受ける。だから、「もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」と約束します。しかし、祭司長たちと長老たちも、イエス様がよみがえられたことを知ります。そして、イエス様がよみがえられたという事実を隠します。そして、ユダヤ人の間では、十字架にかけられたイエスの体は弟子が盗んだという話が広まりましたが、誰が死んだ人のからだを隠し持つのでしょうか。やがて祭司たち、長老たち、ユダヤ人の中からも、人のために十字架にかかられ、よみがえられた救い主イエス・キリストを信じる人が起こされていきます。

 

 

私たちも、私たちを愛し、私のために十字架にかかり、罪を取り除き、永遠のいのちを与えられた主イエス様を信じることができます。感謝です。カイレテ。主のよみがえりを喜びましょう。


2024324日 伝道礼拝 申命記281-14「祝福の条件」

 

 本日は、伝道礼拝にようこそお越しくださいました。

 

 世の中に存在するものは、存在する目的があります。例えば、病院は病気やけがの人を治す。その予防もあります。警察は犯罪者を捕まえる。防犯もあります。消防は火を消す、病人を運ぶ。こちらも、防火、防災も含まれます。他にも、意義や目的を持ちます。

 

 さて、教会は何のために存在するのか。まずは、救い主イエス・キリストを世界中に指し示すこと。そして、このイエス・キリストと、このイエス・キリストを送ってくださった父なる神と、イエス・キリストに代わって、今や私たちとともにおられる聖霊をたたえるために存在しています。もちろん、神様について書かれている聖書を学びます。

 

 ときどき、教会に、相談の電話や訪問もあります。先日は、キリスト教まがいの宗教についてのお問い合わせもありました。人によっては、教会は、さほど関りの必要性を覚えないかもしれないですね。ある人にとっては結婚式や葬儀で教会に来たことがあるかもしれません。

 

 これも人によって違いますが、教会を永遠の視点で見る人、人生の視点で見る人もいれば、クリスマスやイースターなど季節の行事で見る人、一週間や毎日の視点で見る人、この一瞬の課題で見る人もいます。私は、どの視点も、大切だと思います。

 

 また、人の側から神様の方向を見ることもあれば、神様の側から人の方向を見ることもありますが、教会では、聖書を中心に、神様の側から人に語られていることに目を向け、耳を傾けることが多いと思います。

 

通常は、私たちは、自分と自分の家族、自分と友達、自分と会社や学校の人、地域の人、私たち日本人と外国人というように、人間同士のことが多いかもしれません。もちろん、そこにペットや自然などが入ってもいいのですが、万物の創造者が相手になることはあるでしょうか。それはお寺や神社に祭られている存在ではなく、自然そのものでもなく、私たちや宇宙や地球の中にあるすべてのものが存在するきっかけになった造り主のことです。

 

人間は健康で、自分のやりたいことができたら幸せだと思っている。しかし、聖書にある祝福は、神様が私たちに求められることに応じることが祝福の前提になることを教えます。

 

ところが、私たち人間は、この造り主の存在をなかなか認めることができない。それは、最初の人間アダムの罪のため、神を認められない。自らに罪の影響があることも認められない。神様との生きた関係を罪の故に持てない。神に従うことも受け入れられない。罪によって、人間はそれぞれ個人の自由に生きられると信じているから。そして、霊的に死んだままであることも気づかず、肉体的に死を迎えることも自然だと信じ、死後の世界を信じない。

 

神様は、罪の問題解決に、ご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わされた。イエス・キリストは御父の御旨に従い、人々の罪のために十字架の上で死なれ、罪を負われた。そして、イエス・キリストを自分の救い主と信じる者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えられる。その証しとしてのよみがえりであり、御父への従順故のよみがえりです。

 

にわかには、信じがたいことかもしれないです。しかし、聖書に書いてあることであり、教会で教えられてきたことですし、私自身心から信じていることてもあります。そして、教会の歴史では、この教えの確かさを、命をかけて守ってきました。

 

今日の聖書箇所、申命記の28章には祝福とのろいが書かれています。簡単に言えば聞き従えば祝福、無視すればのろいです。ただ、神様がおられないのであれば、祝福ものろいもない。それはある意味、盲信、盲従と言えます。しかし、神様がおられるのに、無視すると、大変失礼ですとか、祝福が受けられないどころか、のろわれてしまう。

 

私は、脅したり、恐怖心を抱かせて信じさせようとは思いません。人間の理性、知性を用いればいいと思います。ただ、罪によって、霊的に死んでいるのであれば、神様のことを語っても、人間の理性や知性は機能するのでしょうか。皆さんが私を笑うこともありうる。笑われても一向に構いませんが、救い、祝福、幸いを失っていただきたくないと思うのは、本心です。

 

もし、世界の人々が、自分自身の造り主に目を向け、聞き従えば、世界は変わり、素晴らしくなる。ここにある「あなた」はひとりひとりの個人に対して、言われていることでもあり、また、イスラエルの民族、国家に対しても言われ、全世界の人々と国々に対しても語られています。人々はものを求めて都市に集まりますが、都市は貧富の差が激しい。しかし、神に従う者は、3節、町にあっても、野にあっても祝福される。子どもも家畜も収穫も増える。

 

 敵が向かってきても、敵が逃げ去る。すべての働きが報われる。神様の大切な存在として、神様の前に立たせていただける。アダムは罪の故に、神様から隠れていました。主の名というのは、イエス・キリストということです。あなたに主の名がつけられるとは、クリスチャン、キリスト者ということ。すると人々はあなたを恐れる。あなたにびくびくするというより、敬意を示すということです。キリストの守りや祝福があるから。

 

主とは唯一の神様のことですが、12節「主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。私が今日あなたに命じる、あなたの神、主の命令に聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」

 

聖書は私たちにいつも、神のことばを信じて従うか否かを問います。言い方は違いますが最初の人アダムも、エデンの園のどの木からでも思いのままとって食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならないと命じられました。イスラエルの王たちも、神様のおきてに従って歩むことが祝福の条件でした。現代の私たちに求められることも、簡単に言えば、造り主である神様とともに歩むことです。それを実現するために、御子イエス・キリストを私たちの救い主とし、助け主、聖霊の力をいただいて歩みましょう。

 

 

 


2024312日 主日礼拝 ヨハネの福音書322-36「あの方は盛んになり」

 

 22節の「その後」とは、ニコデモとの対談の後を指します。イエス様一行が向かわれた「ユダヤの地」とあっても、場所や方向が特定できませんが、バプテスマを授けているので、ヨルダン川周辺だと思われます。また、ヨハネがいたアイノンも、サリムも特定できないのですが、サマリアの北東部、スクトポリスの南方約10キロか、シェケムの東5.5キロの地と言われます。アイノンはヘブル語のアイン、泉を指していると思われます。なので、こちらはヨルダン川に限定されません。

 

 25節、ヨハネの弟子たちが、ユダヤ人ときよめについて論争しますが、一般のユダヤ人と言うより、祭司や律法学者たちと思われます。また、ヨハネが洗礼を授けたイエス様とその一行が、バプテスマを行なっており、イエス様の方が盛況だった。その状況に、ヨハネの弟子たちは平常心ではいられなかった。

 

 受洗者が多い、少ないで、ヨハネとイエス様の評価が出るわけではありませんが、ヨハネは「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」という。バプテスマのヨハネの働き、役割、使命は、キリストの前に、その道備えするということでした。洗礼はヨハネの専売特許ではない。

 

 ヨハネがぶれないのは、28節、「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです」という自覚です。そう言って来たことをヨハネの弟子も、よく聞いていました。

 

 結婚式で中心になるのは花嫁と花婿ですが、現代は、花嫁がややというか、ほぼ中心のような感じがします。イエス様の時代は花婿が中心でした。ましてや友人ではない。29節でヨハネが言う花婿とは主イエスで、花婿の友人はヨハネで、ここでも自分は中心ではないことを語ります。ここに妬みや僻みはない。花婿にスポットライトが当てられることを喜ぶ。花婿の友人は花嫁に花婿を紹介し、婚礼に必要な一切の準備をし、婚約をまとめて、あとは花婿の声を聞くまで花嫁の部屋の前に立って待つとのこと。現代ではもう仲人という働きは少ないのかもしれませんが、ヨハネは仲人と同じ役割を担っていた。それは信頼されている証しであり、光栄です。

 

 30節、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」ここも聞く人によっては、屈辱的、耐えがたく、哀愁が漂う。しかし、ある意味、親も先生もマネージャーなども、自分より年下の子ども、生徒、選手を育て、その活躍を喜ぶ。余談ですが、政治家の関心はどこに、何に向けられているか。当人によって、時代によって違うでしょう。自分自身や金品に向いている場合もあるでしょう。かつての立憲君主国の首相はじめ各大臣は、イギリスも日本も君主に向けられていた。今や日本においては、憲法上、国民主権ですから国民全体に向けられるべきですが、どうでしょうか。モーセやダビデは主権者である神様に向けられていました。30節、ヨハネを暁の明星、イエス様を太陽とすると、イエス様の活動と共に、ヨハネの働きは薄れる。そして、先駆けとして、イエス様に道を譲ることを語ります。

 

 31節でヨハネはイエス様について「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。」と言い、自分を含め、人間について「地から出る者は地に属し、地のことを話す。」と言い、改めてイエス様について「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」という。イエス様は神様であり、私たちは神様に造られた人間であるという自覚。

 

 32節、現状分析が行われ、イエス様について「この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」由々しき事態。預言者を遣わしても聞きいれないので、御子を遣わしたのに、その御子をも受け入れない。

 

 一方、33節の「その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」とは、主イエスの語られることを受け入れる者であり、神様のご真実を認める。34節「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」イエス様は神様であり、神様のことばを語られる。御霊の働きも豊かにある。

 

 35節、父は御子を愛しておられるが、御子も父を愛しておられる。また、父は人間を愛しておられ、父に従う者に、御子と共に地を治める権限をお与えになります。

 

 3136節は16-21節の繰り返しとも言えます。36節は18節に対応しますが、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。

 

 さて、24節に戻って、「ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」とありますが、ルカの福音書319-20節では、ヨハネが投獄されたことを記しています。「しかし領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアのことと、自分が行った悪事のすべてをヨハネに非難されたので、すべての悪事にもう一つ悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた。」と。私たちは、悪や不正を見たとき、どうするでしょう。悪を為す者に、にらまれたり、恨まれたりするから触れないでおくでしょうか。自分の務めではないと言って、放っておくでしょうか。

 

伝道者の書7章16節に「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」とあり、一見、見てみない振りが求められるかのように思われます。

 

 車や家ならばシェアしたり、売り払うことができても、誰かの配偶者をシェアすることも、誰かの配偶者を奪い取ることも許されません。それは高い身分であろうと変わりません。しかし、その事実を知っていても、それを本人に言うと、自分に危害が及ぶので、いけないことを「いけない」と言えないこともあるかもしれません。それでも、旧約の預言者たち、そしてバプテスマのヨハネは、自分が不利になっても、いや身の危険を帯びても、言うべきことを言った。それが職務である、役割であると認識していた。

 

 

 賢い生き方は後先を考えることも一つです。しかし、正しい生き方は、後先を考えるのではなく、神様の御旨を求めること。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」とは、やせ我慢でも、形式的にでもなく、ヨハネの生き方でした。ヨハネが求めたのは「ヨハネは素晴らしい」と自分が賞賛されることではなく、神の御子であるのに、人となって十字架にかかられ、人を贖うイエス様に人々の目が向けられ、信仰を持ち、永遠のいのちを持つことです。


2024310日 主日礼拝 ヨハネの福音書31-21「ニコデモの夜の訪問」

 

 引っ越しや結婚のあいさつ文に「お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください」というものがあります。北海道では出来額面通りですが、京都出身の神学校の同級生が、「招かれてもすぐ行っちゃだめで、3回招かれて、『そうですか。では。』とならないとはしたない」とのこと。同じ日本で、同じ言葉でも、意味合いが違います。聖書のことばは、その文化の人にしっかり理解してもらえるように翻訳されているので、額面通りです。

 

 夜の訪問客はどうなのか。ルカの福音書115-8節に、イエス様の語られたたとえ話で、「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」と。遠くからの友人は受け入れられても、近所の友達は、できれば日中にして用を言いつけて欲しいということでしょうか。しかし、突然現れた友人に対応できないから助けてほしいというわけです。神様は24時間365日どんな小さなことも受け止めてくださいます。

 

 さて、ニコデモはこのヨハネの福音書の3章、7章、19章に出てきます。パリサイ人はハシディーム派(敬虔主義者)の人々とつながりがあると思われます。聖書を熱心に調べる人たちであった。そして、厳格でした。神様のご支配を信じ、死人のよみがえりも信じ、御使い、終末、そしてメシアの到来を信じていました。宮廷の資料では6,000人いた。パリサイ派に帰依した人も加えると25,000人、そのうち2万人がエルサレムに住んでいました。ユダヤ人の議会は70名または71名で構成されます。そういう意味で、ニコデモはユダヤ人の代表と言える人物でした。

 

 そのニコデモが夜、イエス様のもとを訪れたのは、立場上、隠したかったからと言われます。しかし、日中、業務が多忙で、その後の訪問であったとも言えます。また、闇の中に生きる人間が光を求める姿であると言われます。いずれにしても、社会的地位があろうと、多忙であろうと、主イエスへの関心を持ち、情報を得、直接、話を聞きたいと願った。イエス様に対して、「ラビ」という。そして、「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」という。これは何のことか。水をぶどう酒にかえたことや他のことも含まれると思います。

 

 ニコデモは主イエスを神のもとから来られた教師、神がともにおられるからこそできる行いを認めます。もし、おべっかであれば、主イエスは見抜くでしょうし、忙しいニコデモが主イエスに会いに来る意味がない。主は、大切なことであるから「まことに、まことに、あなたに言います。」と言い、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」という。脚注には「上から」とあり、「再び」という意味もあり、新改訳2017は「新しく」と訳しています。通常、新しく生まれるには、生まれ変わるか、ニコデモが考えたように、「もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」となります。イエス様は、ニコデモの問いに対して、もったいぶらず、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」という。

 

 新しく生まれ変わることが、神の国を見るために必要で、水と御霊によって生まれたなら、神の国に入ることを伝えます。水は悔い改めのバプテスマで、御霊は新生のことです。言い換えると罪の赦し・きよめと霊的賜物・聖霊がその人のうちに住まわれること。

 

 私たち人間は、肉によって生まれた者です。アダムの罪によって、霊が死んだ者です。しかし、御霊によって、つまり聖霊なる神によって、霊的に生まれることができます。

 

 「生まれ変わりたいな」と思う人は相当数いるのではないでしょうか。しかし、人は自分の意志で、誕生することも、生まれ変わることもできない。

 

 8節の風も御霊もギリシア語で言えばいずれも、プネウマです。なので、風と訳したらいいのか、御霊と訳したらいいのか。風と御霊を対比しているのか、あるいは御霊は思いのまま働かれるということを指しているのか。

 

 7節、ニコデモの顔から、理解しがたい様子がうかがえた。本人も9節「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」と聞く。イエス様は、10節、「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」と言われても、わからないものはわからない。教えてもらわないとわからない。いや、聞いたこともなく、見たこともないことは、教えてもらってもわからないこともある。この場合、証言を信じるしかない。ある意味、信じるとは難しいこともあれば、騙されることもある。だから、「信じられない」こともある。しかし、信じることがなければ、人間関係も、神様と人間の関係も成り立たない。

 

 では、信じないのが安全なのか。エジプト脱出後の荒野の生活に堪えられなくなり、民は神様とモーセに逆らったとき、神様は蛇を送られて多くの人が死にました。その時、悔い改めた者たちがいて、青銅の蛇を仰ぎ見た者が生き延びました。(WHO世界保健機関の旗に蛇が描かれているのは民数記21章のこの出来事を表しています。)そして、十字架にかけられる主イエスを仰ぎ見る者が救われる。私たちの罪の身代わりに十字架にかかられる主を救い主と信じて救われる。それは、神様が遣わされた御子イエス・キリストを信じる者がみな、イエス様の功績によって、永遠のいのちを持つためです。

 

 

 このことをヨハネの福音書316節では「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と表しますが、続きがあります。イエス様が世に来られたことがさばきであり、イエス様の出現は、世の人々の生活にひとつの危機・迫りをもたらし、人々は光に来るか暗黒に留まるか、決めなければなりません。信仰とは、真理を実践することであり、それは、光に従い、光に引き寄せられることであり、神様に吟味されることを喜びます。


202433日 主日礼拝 ヨハネの福音書213-25「宮きよめ」

 

 イエス様の公生涯の年数は、過ぎ越しの祭りがヨハネの福音書に記されているものを参考にしています。13節の過越しの祭りを第1年目と数えます。「イエスは」とありますが、17節を見ると、弟子たちもいました。ただ、これから見るように、弟子たちも、人々も、その時イエス様がおっしゃられた言葉の意味を理解していなかった。そういうことは、私たちにもあります。

 

 アブラハムの時代も祭壇が築かれ、動物を神様に捧げるということがありました。それは契約の時、神様への礼拝や感謝を表しています。モーセの時代は、祭儀が整えられ、幕屋が設けられ、贖罪のささげ物もささげられました。罪の自覚があれば、速やかに、罪の自覚がでない場合でも、感謝を表して、折々に動物がささげられています。そして、貧しい家庭の場合は羊に代わって鳩が用いられることもありました。

 

 カナンの地に入ってからも、どこにいても、捧げるものを携えて、幕屋のあるシロへ赴く。ダビデの神様への献身の思いが、戦いで血を流していないダビデの子ソロモンを通して、エルサレムに大きな神殿が築かれます。その時もやはり、みな、ささげものを携えて、エルサレムに行きました。

 

 ソロモンが7年かけて築いた最初の神殿はそののちバビロンに敗れて破壊されます。エズラ・ネヘミヤが修復した第2神殿は、ゼルバベル神殿と言われますが、紀元前37年にローマのポンペウスによって破壊され、その後、ヘロデ大王が、46年かけて築いた第3神殿はヘロデ神殿と言われ、イエス様当時のものです。実は、これも紀元70年にローマのティトゥスに破壊されます。正確には紀元前20年から作り始められ、完成が紀元63年で、83年かけたとのこと。どの神殿もサイズは一緒。ただし、ソロモンのものが集中工事であったため、一番短期間で、一番豪華であったであろうとのこと。

 

 さて、イエス様の時代、ローマの支配下にありつつも、ローマに逆らわなければ、平和に過ごすことができる。平和だと、戦費など無駄な支出はない。無駄がないと余裕もできる。だんだん人々は安楽な生活に傾く。つまり、神殿のささげものも、わざわざ、地元から家畜を運搬しなくても、宮の中で動物を買えば、楽です。ところが商売人は、ローマでの貨幣ではなく、ユダヤ地方の貨幣に両替します。それは祭司推奨というか、結託がありました。双方への利益誘導です。

 

 イエス様は苦労して、家畜を携えてこないことを断じているのではなく、宮において、不当に利益をむさぼっている商売人と両替人を断じているというより、宮における両替と商売そのものを断じています。

 

 細縄でむちを作って、羊も牛も宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒す行為は、神の子らしくない行為だと私たちは思うかもしれません。しかし、宮で両替したり、家畜を売ることをイエス様は許さない。

 

 母教会で、新会堂移転後に、教会を知ってもらうために、イエス様をお伝えするために、そして、食糧難で苦しんでいる人々のために、バザーを開催しました。そしたら、気前よく、どんどん買ってくれる中年の男性がいた。売り上げだけを考えると嬉しいことですが、実はその人は、リサイクルショップの経営者で、安いバザーの品物を、言わば、仕入れて行ったわけです。私たちは、地域の皆さんに喜んでもらおうと、いろいろ作ったり、提供したのですが、うまいところ、ごっそり、取られていった。これは空しかった。バザーに来てくれた他の家族や友人も、商品がなくがっかりした。ある意味、その人の正体を見破ることも、叱ることもできなかった。

 

 イエス様は、鳩を売っている者たちに「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われた。弟子たちは、そんなことを言えば、問題が起こるとわかっていた。そして、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

 

18節のユダヤ人は、祭司長たち、指導層の人々です。彼らは「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」という。それも、イエス様の言うことやることは至極ごもっとも思いつつも、宮の中で商売している者たちから、売り上げの一部を得ていたからです。

 

ユダヤ人たちが言いたいのは、「どういう権威、権限をもって、こんなことをする」のかという問い。しるしは何かと問われ、イエス様は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」と言います。「わたしを殺してみなさい。わたしは三日目によみがえります」であれば、「この神殿を壊してみなさい」よりは、わかってもらえたかもしれません。しかし、ユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」と言い、かみ合っていません。

 

 イエス様が「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」と言ってたことを、3年経て、弟子たちは真の意味を知ることになります。イエス様は弟子たちにご自分が祭司長たちにつかまり、苦しみを受け、三日目によみがえることをマタイとルカの福音書では各3回予告していますが、ヨハネではここだけです。

 

 22節、弟子たちでさえも、聖書の預言やイエス様の発言を事後でなければ信じられないことを語ります。23節「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」とある、その具体的なことは記されていません。

 

 「しるし」は、人々を、つまり当時の人も、聖書を読む人も含め、「イエスが神の子キリストである」との信仰に導くためのものです。しかし、多くの人々は、その「しるし」の真の意味と目的を十分に理解することなく、うわべでイエス様を信じている。イエス様は「人のうちに何があるかを知っておられた」。人々の信仰は、イエス様に見倣って、完全な信仰となるために深められる必要があった。イエス様は人々の不完全な信仰が完全な信仰に成長するのを忍耐をもって待たれることも、これからの出来事を通して教えられます。

 

 

私たち、主イエスを信じた者が、いまだ地上に置かれているのは、人々への伝道のためであることはもちろんですが、信仰の成長のためであることも確かです。あのおっちょこちょいペテロも、教会のリーダーとして成長していくので、与えられている時間・人生は実に尊いものです。


2024225日 伝道礼拝 ヨハネの福音書21-12「水をぶどう酒に変える」

 

 本日は伝道礼拝にようこそおいでくださいました。伝道とは、道をお伝えすることです。道とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」とおっしゃっていて、父なる神様にすべての祝福と喜びと平和があるのですが、イエス・キリストはそこに私たちを導いてくださいます。

 

 さて、何事にも始まりがありますが、イエス様の人としてのスタートはベツレヘムでの誕生です。そして、キリストとしての歩みは公生涯と言いますが、約3年半ありましたが、バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と語ったことから始まり、それから五日目、1章43節の言及から三日目のこととなります。

 

 だれでも、最初の一日目とか、一週間目とか、なかなかなじめなく、ぎこちないものだと思います。イエス様は「ラビ」と呼ばれても、しっかり受け止めます。ガリラヤのカナは、ガリラヤ湖の北西50キロで、ナザレから北へほぼ10キロのところにあったと思われますが、婚礼があった。主イエスの母もいた。主イエスも、弟子たちも招かれた。ただ、1章から見ると、12弟子はまだそろっていない頃でしょう。いや、使徒になる人は、イスカリオテのユダの代わりに選ばれる人は「主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」とすれば、一緒にいたが、まだ弟子に召されてはいなとも言えます。

 

 だれの婚礼か。大勢の人が招かれているようで、その地域の有力者であったと思われます。ぶどう酒が振る舞われます。しかし、用意が足りなかったのか、予想外に飲む人たちがいたのか。ぶどう酒が足りなくなってしまった。

 

 なぜ、マリアが主イエスに「ぶどう酒がありません」と言うのか。女性は給仕する方、お手伝いだったのか。ただ、気づいたので現状の打開を図ろうとしたのか。マリアは主イエスが、神の御子であることを知っています。聖書の知識はエルサレムで教師たちとやり取りしていたのも覚えています。しかし、まだ、神の御子として、能動的な行動はなさっていない。

 

 婚礼は、人々にとっても喜びの場であったことは確かです。しかし、ぶどう酒がないことを告げられても困る主イエス。主イエスは不思議と、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」という。明らかに主イエスとマリアは親子関係。しかし、婚礼に招かれた者が、婚礼において、ぶどう酒が足りないことに対応する必要はない。

 

 ある文化では、婚礼に招かれた者は、自分が飲む分のぶどう酒を持って来て、樽にあけるという。ブレンドされて、その時だけの味わいになるのでしょう。

 

 「わたしの時」というのは不思議な言葉です。キリストとして、事を行う時はまだ来ていないということです。聖書の中には、いろいろな時があり、始まりの時、終わりのとき、十字架にかかる時が記されています。

 

 マリアが給仕の者に指示を出すのも不思議で、給仕がマリアの指示に従うのも不思議ですが、ぶどう酒がないことは、主催者にとって、赤っ恥をかくような状況には陥らせたくないと、マリアの指示に従ったのでしょう。「あの方が言われることは、何でもしてください。」主は困っている人の求めに、また、母の求めに、答えないわけにはいかないということ。80ℓとか、120ℓ入る石がめが6つあったので、主は「水がめを水でいっぱいにしなさい。」と命じます。きよめのしきたりとは何か。結婚式の時に、会場に入る者が手を洗うこととして、80ℓの樽が3つ、120ℓの樽が3つですべてで600ℓの水があったとして、空になるほど人が集まったのでしょうか。

 

 もともと水が入っていたのであれば、水ではなくて、ぶどう酒が入ってたという人が、出てきそうです。しかし、そこに水を入れたのであれば、良いぶどう酒ではなくなるわけで、いずれにしても主イエスが何かをされたということになります。

 

 主イエスは「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と給仕たちに命じた。彼らは持って行った。宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」と言った。

 

 私たちはこれを「奇跡」と言いますが、聖書では「しるし」と言います。イエス様にとって水をぶどう酒に変えることは奇跡でも何でもなく、神様であるしるしを示されました。

 

 人は神様ではないので、人々にしるしを示すことはできない。イエス様は神様なのでできる。普通の人間ができたなら、それは奇跡かもしれないが、いつも行えるのであれば奇跡ではない。ぶどうは温帯で、平均気温が10度から20度程度が栽培に適し、年間雨量も500㎜から1600㎜が主要産地で、水はけがよく、日当たりが良い土地を好みます。そして実を収穫して1-2週間、低温では3週間で発酵完了とのこと。神様は時も治めておられるので、その発酵時間を大幅に短縮されたということです。神様は天地を6日間でお造りになることができるお方です。

 

 ある人は稼いだお金をほぼお酒に変え、妻の顔を悲しみに変えていた。しかし、キリストを信じて、稼いだお金を生活に必要なものに変え、妻や子供の顔を喜びに変えた。

 

 私たちは、おおよそ、人生においてどうすればよいか、わかっている。しかし、わかっているができない。例えば、ごめんなさい、ありがとうが言えない。口が裂けても言えないという人もいる。心では申し訳ないと思っているがと。キリストを信じると、ごめんなさい。ありがとうが言えるようになる。なぜなら、まず私の罪をお赦しくださいと祈り、私のために十字架にかかってくださりありがとうございますと神様に言って、新しく生まれ変わるので。

 

 

 これを罪の悔い改めと信仰告白と言いますが、ある人は100年経ってもできない。しかし、神様にそうできるように求めるとできます。共観福音書では奇跡を起こす条件が信仰ですが、ヨハネの福音書ではしるしの結果として信仰が生まれます。


2024年218日 主日礼拝 ヨハネの福音書135-51

「最初の弟子たちが主イエスに従う」

 

 大概、物事は、時間の流れに沿って進むのかと思いきや、そうではないことが聖書でもあります。それでも、このヨハネの福音書では、バプテスマのヨハネが祭司たちに聞かれ、キリストではないことを語り、その翌日はイエス様に向かって「世の罪を取り除く神の小羊」と宣言し、今日のところは35節、43節「その翌日」、「その翌日」と続きます。2章に入ると水をぶどう酒に変える初めての奇跡をイエス様が行いますが、これがこの一連の第一週に行われていることも、「それから三日目に」とあることからわかります。時系列です。

 

 さて、バプテスマのヨハネの活動は当初、この働きに召されたヨハネ単独の活動であったが、賛同し、共鳴する者が弟子として加えられた。弟子はマセーテースと言いますが、元となる言葉は、学ぶ、聞いて知る、確かめる、理解するという意味のマンサノーです。真理とは何か、人生とは何かなどを、ヨハネとともにいて、理解しようとする人たちが複数いた。

 

 「私は荒野で叫ぶ者の声です」というヨハネと、そのヨハネが「神の小羊」というイエス様と、どちらから学ぶと良いのか、ヨハネの弟子がキリストに会うと迷うところです。しかも、ヨハネ自身が「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と言ってたわけです。ヨハネと弟子の関係は、師匠と弟子の関係と言ったらいいのか。一度弟子となったら、弟子をやめることはできないのか。結構自由なのか。個別契約なのか、本人次第なのか、全くわかりませんが、ヨハネの場合は比較的自由にさせていたようです。それでも、ヨハネがヘロデに投獄され、斬首され、遺体を引き取るまでヨハネに従った弟子もいました。

 

 一方で、ヨハネがイエス様に向かって、「見よ、神の子羊」と言ったのをきっかけに、ヨハネの二人の弟子は、イエスについて行った。この「ついて行く」は信仰的なものを表します。イエス様は振り向いて、ついて来る二人に「あなたがたは何を求めているのですか。」と聞かれました。彼らは「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」という。ラビは当時のユダヤ人が使っていたアラム語で、わが主、大いなる者の意味で、ユダヤ人が教師に対して使う尊称です。ヨハネの弟子たちは尊敬をもって主イエスにラビと言い、「どこにお泊りですか」と聞きますが、この「泊まる」も、通常は「留まる」と訳される場合が多く、寝起きの場所というより、主イエスがよりすがっている根本をお尋ねしたかったのでしょうし、一晩というか、ゆっくり、じっくりお話ししたいという願いです。それに対して、「来なさい。そうすれば分かります。」という優しいイエス様。ヨハネの福音書では、午前6時を起点に第何次を足すと現代の時間になります。第十の時は午後4時頃となります。

 

 12弟子の名前が記されている箇所はありますが、ヨハネの福音書では、その弟子との出来事が比較的わかります。一人はアンデレ。ところがアンデレと言っても有名ではないので、シモン・ペテロの兄弟アンデレでと説明されます。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子であった。そして、メシア(キリスト)に会ったと兄弟のシモン・ペテロに伝えます。しかも、単独の証言ではなく、「私たち」と、複数証言ですので信ぴょう性が高まります。このシモン・ペテロの本名はシモンで、そのシモンにイエス様がペテロとあだ名をつけられた。このペテロは、ペテロの頭の固さなのか。意思の硬さなのか。やはり、イエス様がマタイの16章で「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」の問いに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白に対してです。その告白こそ、揺るがない教会の土台となるということをあらかじめ語った。

 

 41節の「私たちはメシアに会った」の会ったの脚注は「見出した」とあります。アンデレはメシアを探し求めていた。その方に出会ったら嬉しいでしょう。誰かに伝えないわけにはいかない。兄弟のシモンに報告します。42節、シモンもメシアに合うことを願ったので、イエス様のもとに連れていきます。イエス様はシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」という。イエス様はその人物の将来を見通すことができる。だからケファと呼ばれると言います。ある意味、シモンがイエス様に対して「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白をすることができるように、導かれた。ケファはアラム語で、ペテロはギリシア語で、アラム語は当時のユダヤ人が使ってた日常語で、ヘブル語によく似ています。個人伝道の方法で「アンデレ活動」というものがあります。信者が身近な人、兄弟や親や子を伝道集会や教会にお連れするということ。そこが信仰のスタートとなります。もちろん、アンデレが主を信じたとか、シモンが主を信じたという記述はないのですが、主とともにいて、主を深く知るようになります。また、ヨハネは自分のことに関しては控えめで名前を出しませんが、アンデレと共にいたもう一人の弟子はヨハネだと思われます。

 

 翌日、イエス様はピリポを見つけ「わたしに従って来なさい」と言われた。不思議ですが、ここでは主がご指名されるわけです。アンデレ、ペテロと同郷のものです。ピリポはナタナエルをイエス様のことを語ります。ナタナエルはピリポに「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」というが、ピリポは自分があれこれ語るよりも「来て、見なさい。」という。ナタナエルはピリポとの信頼関係があったので、主のもとに来た。ある面、義理でと言ってもいいかもしれません。お前が言うなら行ってみるかという具合でしょう。でもメシアに出会う。

 

 イエス様は「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」という。そう言うことが言えるイエス様がすごいですが、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」とイエス様はナタナエルに語ります。ナタナエルが「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と言います。48節では「ラビ」とは言っていませんが49節では「ラビ」と主に敬意を表します。

 

 イエス様は「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」と言われます。イエス様と一緒にいるとすごいことが起こります。わくわくします。それは止まることがない。ある意味、信仰、期待がないと始まらない。ペテロは海面歩行のとき、風を感じて恐れますが、しっかり主ご自身を見ることが大切です。

 

 

 ナタナエルは他の福音書には登場しないので、途中で離れて行ったのか。いや、ヨハネの21章にも弟子の一人として記されているので、他ではバルトロマイと呼ばれる人物ではないでしょうか。そして、主は私たちの賜物も将来もすべてご存知なのです。


2024211日 主日礼拝 ヨハネの福音書119-34

「ヨハネの使命と主イエスのメシア宣言」

 

 今日の箇所は、福音書の調和表では、イエス様の洗礼とは別に扱われますが、とても似ているところです。さて、病院で白衣を着ている人がすべて医師であるとは限らず、ホテルでブレザーを着ている人がすべてホテルマンとは限りませんが、間違いが起こりうる。私は誰かに間違われてうれしいことはありませんが、皆さんはいかがでしょうか。

 

 ユダヤ人たちが、祭司長やレビ人たちをエルサレムから遣わしたのは、荒野であったのか、ヨルダン川であったのかは28節に、「ヨルダンの川向こうのベタニア」と記されています。そしてバプテスマのヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねます。ヨハネは察しがよく、「あなたはキリストですか」という問いであると受け止め、「私はキリストではありません」と明言します。あえて「ためらうことなく告白して」というのは、キリストに間違えられるのは、いやなことではなく、むしろ心地よいことであると言えるでしょう。しかし、ヨハネは正しく、自分の心地良さより、真実を語ります。

 

 キリストではないなら、何者なのでしょうかというのが次の質問で、エリヤですかと聞かれる。マラキ書45節に「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあるので、キリストでなければ、エリヤですかという問いになりました。エリアは竜巻に乗せられて天に上がったので死んでいません。エリアであることも否定しますが、「では、あの預言者ですか。」と聞く。両者の間には共通の預言者がいたようですが、脚注には申命記18章から、同胞の中から出る預言者ということですが、それでもないと言います。

 

 ヨハネについては最後の預言者という人もいますし、マラキ書で言うエリヤだという人もいますが、ヨハネ自身としては、「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」ということです。これがヨハネが神様からいただいた使命です。

 

 彼らの次の質問は「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」でした。もちろん、聖書を見るとイエス様がバプテスマを授けるとか、エリヤがバプテスマを授けるとか、あの預言者がバプテスマを授けるという記事はないのです。そして、ヨハネの答え「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあり、質問と少しずれています。ただし、ある意味、質問がずれています。ヨハネは悔い改めを示す水のバプテスマを授けていましたが、祭司長やレビ人に「なぜ」と問われる筋合いのものではなかった。彼らにとっては、「信仰に関する一切のことは、私たちを通してでなければ認められません。」ということを言いたかったのでしょう。しかし、それが神様から直接命じられたことであるということであれば、彼らにとっては心穏やかなものではありません。人々は、ヨハネがキリストなのではないかと考えたわけですが、ヨハネは、「その方の履き物のひもを解く値打ちもありません」という。それだけ、キリストは素晴らしく、近寄りがたいことを語ります。

 

 翌日、イエス様がヨハネの方に来られます。そして確信をもって「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」と宣言します。ヨハネがイエス様にバプテスマを行なった場面とよく似てはいますが、書いた人が違うという以上の違いがあり、やはり別な場面であると判断できます。また、ここで言うバプテスマはイエス様へのバプテスマではありません。32-34節の「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」という証言は、今起きたことではなく、過日、イエス様に行ったバプテスマのときの証言です。それは文法上、明確です。神の小羊は出12の過越し、出29:38-46の朝夕犠牲、イザヤ53:4-12、創世記22:7

 

 また、昨日の祭司長たちの質問で、「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」というのがありましたが、ここでは、「水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方」がおられることを語ります。しかもそのお方は、その辺のだれかではない。「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。」ということのできる方です。

 

 もっと言えば、ヨハネは水によって悔い改めのバプテスマを授けていたが、ヨハネが前備えしていたのは、聖霊によってバプテスマを授ける者のため。聖霊によるバプテスマとは新生をもたらすバプテスマです。だからヨハネは、「その方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と言った。そして、ヨハネに使命を与えられた方は神様であり、聖霊によってバプテスマを授ける者こそ、キリストなのです。

 

 世の中には、「はい」とも「いいえ」とも言わず、間違いのまま、成り済ます者もいます。自分が○○だといったのではなく、あなたが勝手に勘違いしただけでしょ、と。しかし、キリスとでもない者が、そのように相手を勘違いさせておくのは不届き千万。

 

 私たちの場合は、キリストのものとされ、キリストに似る者とされているので、キリスト者というのは間違いなく、神の子とされているので、神の子とされたことを喜んでいいのです。むしろ、感謝をもって、その意味を深く味わえばいい。

 

 同じ人間でありながら、ひざまずいて人の靴を磨く人と、靴を磨いてもらう人がいることを否定するのではなく、これは役割で、ヨハネが主イエスの履き物の紐を解くとは、天から来られた方と地から生まれ出た自分との対比です。ヨハネの謙遜さもにじみ出ていますが、主イエスはマタイの福音書1111節で「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」と語り、天と地の絶対的違いを語っています。

 

 

 ああ。それなのに、それなのに、主イエスの十字架は天と地を結び、救い主を信じる者を天に引き上げてくださいます。本当に主イエス様に感謝します。


202424日 主日礼拝 ルカの福音書41-13「サタンが荒野で主イエスを試みる」

 

 3つの福音書に、サタンが荒野で主イエスを試みる記事が記されています。マルコの福音書では、イエス様が洗礼を受けた後「すぐに」、四十日間荒野で、サタンの試みを受けたということのみが記されていています。マタイの福音書にも「すぐに」ということばが20回、ルカにも10回、ヨハネにも7回書かれていますが、マルコの35回は特徴的です。ペテロの思考や性格を表しているかもしれません。ただ、どういう試みであったかは、マルコには記されていません。

 

 イエス様がどうして荒野に行かれたか。それは御霊に導かれてのことです。御霊はプネウマと言いますが、プネウマに英語のtheにあたる冠詞のトがつくと、聖霊になりますが、プネウマだけでは、実は、御霊かただの霊か、判別できませんが、文脈を通して、御霊であると判断しています。試みは誘惑とも訳されます。つまり、成長になるのであればしばしの試練ですが、負けてしまうのであれば誘惑ともなります。荒野は、わずかな草木があり、小規模の牧畜も可能ではあるが、ほぼ人のいない寂しいところ。頼るは神様のみで、かつてモーセ率いる民もここで神様の訓練と養いを経験しました。

 

 神様は愛する者を訓練なさいますが、悪魔は、訓練ではなく、引きずり落そうとします。なぜ、神の御霊は主イエスが悪魔に試みられることを許すのか。とても不思議ですが、最初の人アダムはこの試みに完敗しました。主イエスは第二のアダムとして、人々を勝利に導くため、試みに遭われました。

 

 普段と違って、お腹が大変空けば、がづがつ食べたくなるでしょうし、いつまでも治らない病気になれば、いっそのこと死にたくなったり、調子がとても良いと、偉くなったように思ったり、特別な思考を持ち、特別な行動をするかもしれません。悪魔は、私たちが普段想定していない事柄に関して、冷静に考えさせず、急がせて決断させようとします。

 

 ルカの福音書42節を見ると、イエス様は四十日間の試みの間には空腹を覚えず、この期間を終えてから空腹を覚えられたというので、悪魔の試みに打ち勝つことに、思いを集中させていたと思います。四十日間の試みの回数が3つではなく、四十日間の試みの代表として、3つの試みがあったように記しています。

 

 1つ目は、肉体の必要で、空腹を覚えた主イエスに対して「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」という。イエス様は神の子であることは事実です。だからと言って、悪魔の指示に従わなくていい。石をパンに変えることもできた。しかし、申命記83節「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」と言って、悪魔に応じられました。

 

 2つ目は、精神的必要で、イエス様を高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」と言います。国々の権力と栄光が悪魔に任されているというのも真実ではなく、神の御子が悪魔にひれ伏すことはない。それでもイエス様は「馬鹿なことを言うな」ではなく、申命記613節「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」と答えられます。

 

 最後は霊的なことで、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」と、悪魔自身も聖書を引用して語るのですが、御使いが助けてくれるのは確かであるとしても、あえて、高所から身を投じる必要もない。イエス様は申命記616節「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」と答えられます。

 

 各箇所をよく見ると、臨機応変に、聖書の主旨に則って応えています。イエス様の聖書の理解力と適応力は、私たちにとって模範となります。

 

 悪魔は人間に対しては百戦錬磨、だましのプロフェッショナルです。しかし、イエス様には全く歯が立ちませんでした。ルカの福音書413節では「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。」とあり、一旦退散しますが、また襲い掛かってきます。その最大のものが十字架です。

 

 マタイの方では「イエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」と記しています。私たちにとっても、人生は誘惑であり、戦いであります。あなたがクリスチャンなら、神を信じているなら、「これらの石がパンになるように命じなさい。」とか、祈りなさいと仕掛けてくる。「あなたが神を本当に信じているなら、ここから飛び降りて、御使いが確かに受け止めてくれるという所を見せてもらいたいもんだ。」と言ってくる。そして、「あなたが神にではなく、私に従うならば、この世の地位でも、財宝でもあなたにあげます」と迫って来る。イエス様は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」と答えられます。このマタイの410節の「下がれ、サタン」は、イエス様が弟子たちに、「ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、」示し始められたとき、ペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」と言ったときに返された主のことばと同じです。つまり、イエス様は御父のみ旨をよく踏まえており、それに反することに関しては強い意志をもって退けられます。

 

 イエス様は神様であり、イエス様も礼拝されるべきお方です。しかし、イエス様の中には、神様に背いた悪魔にひざまずく思いは決してなく、人間を贖った後、礼拝されることを良しとしても、今はまだその時ではないことを表しています。だから、十字架の死を避けるということもなかった。

 

 

 とかく人間は楽しいこと、安楽なことを求める。しかし、主イエスは御父のみこころを第一に求められました。私たちも悪魔に試みられる。それは御旨に従って生きるか、自分の思いに従って生きるか、どっちであるかを、神様に対して、それ以上に自分に対して、はっきりさせるためです。あるいは失敗もあるかもしれません。しかし、私たちの弱さをご存知の主に感謝します。そして、勝利の模範を示された主をあがめます。


2024121日 主日礼拝 ルカの福音書31-22「主イエスのバプテスマ」

 

 バプテスマのヨハネとイエス様のバプテスマについては、ヨハネ以外の3つの福音書に記されています。バプテスマのヨハネの記事は不要だと考える人もいるかもしれません。しかし、イザヤ書403節に、「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」とあります。そして、ここに関してはすべての福音書で引用してます。イエス様がキリストであるということを、旧約聖書に記されているとおり、バプテスマのヨハネの活動について触れながら、証明しています。

 

 ルカは医師であり、歴史家であると言われますが、12節の「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」と、時代と場所を明確にします。

 

 この皇帝ティベリウスは初代のローマ皇帝ガイウス・ユリウス・カエサルの養子で、紀元前42年に生まれ、紀元14年に皇帝になりますので、その治世の第十五年から、バプテスマのヨハネの活動開始は紀元28年ということになります。それはイエス様の活動開始の時期も示唆します。

 

 神様のことばがヨハネに臨み、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と語るのは、マタイ32節。マタイ、マルコでは「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。ルカでは「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。つまり、ヨハネはまず各地に行って、悔い改めを迫ると、人々はそれに応じて、ヨルダン川にいるヨハネのもとに来た。

 

 それにしても、らくだの毛の衣をまとい、革の帯を締め、いなごと野蜜を食すのは、特徴的であった。また、語ることも特徴的であった。マタイとルカでは、「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」と迫ります。まむしの子すなわち、サタンの子という。さばきが迫る。アブラハムが私たちの先祖であるということは、何ら効果なし。悔い改めよと。ただし、マタイはパリサイ人とサドカイ人に対してこう語り、ルカでは群衆に対してです。もちろん、ルカはパリサイ人とサドカイ人も群衆の中に入れていたかもしれませんが、この場合、マタイの見方の方が的確でしょう。

 

 悪い生活をしていた人が、その生き方と決別する時、足を洗うと言います。ユダヤ教に改心する人は割礼。ユダヤ教の一派のエッセネ派は入会の儀式に、この洗礼をしましたが、聖書が教える洗礼は、キリストとともに、この世に対して死に、キリストともに、神に対して生きるという証し・決意表明とともいえるのがバプテスマです。意味は浸す。

 

 人々はどう生きたらいいか、問いますが、ルカにある記事では、ヨハネは「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」と勧めます。今でいえば、分け合う、助け合う、シェアする。当時も、今も、人間は独り占めしてしまう。それが罪の特徴です。ルカでは取税人と兵士に対するアドバイスもあります。職業上の地位や権力を乱用しないこと。

 

 こうしたヨハネは群衆の評価を受けますが、人々は「このヨハネがキリストではないか」のと期待します。こうした経緯を記すのはルカのみで、マタイとマルコは「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と、後に来られるイエス・キリストのことを語ります。

 

 その折、イエス様が、バプテスマのヨハネから、バプテスマを受けようと来る。バプテスマが、神様とともに新しく生きる決意を表すものだとすれば、イエス様にその必要はない。悔い改めるべき罪もない。なのに、バプテスマを受けるという。これはヨハネとしては、全く予想外。ヨハネは、そうさせまいとして「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」と言った。しかし、主イエスは「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」という。ヨハネは主イエスの言われたことに応じます。ヨハネはしもべとしての心を持っており、適切なふるまいをします。イエス様も謙虚な方です。お互いにへりくだっています。

 

 3つの福音書に主イエスのバプテスマのことが記されており、マタイとマルコでは、水から上がられると、マタイ「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。」マルコ「天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。」ルカは「イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。」とあり、多少表現が違いますが、書き手が違うので当然であり、立体感が出て来ます。

 

 そして、天から声があり、マタイ「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」マルコ「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」ルカ「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」とあった。これは、イエス様が知らないことではない。むしろそこにいた者への証しでしょう。しかし、キリストとしての公生涯に入った御子への承認と励ましでもあります。

 

 

 私たちがバプテスマを受けたとき、あるいは、みこころを知ってそれを行う時、天から、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」ということばを聞いたでしょうか。聞いたのであれば、それは素晴らしいこと。聞かなくても、バプテスマによって、あなたがキリストとともにこの地に対して死に、キリストともに主のみこころのうちに生きることを決意したとき、神様は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と発しておられた。そしていつも私たちに対して、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」とおっしゃっていることを信じます。


2024114日 主日礼拝 ルカの福音書241-52「宗教の教師たちと話をする主イエス」

 

 旧約の民は、心して、モーセが神様から受けた十戒を守りましたが、守るのは、十戒だけではなく、旧約聖書に記されている様々なことです。その中には、年に三度、祭りを行うということも含まれ(遠隔地の者は過ぎ越しのみ)、その一つが、種無しパンの祭り=過ぎ越しの祭りでした。これを命じられているのは「男子はみな」とあるので、女性は任意なのか、男子とは成人した12歳以上を言うのか、というとすべてを含むのではないでしょうか。

 

 ところが、契約の民として、大切にされていた割礼さえも、荒野での40年間では実施されていませんでした。いろいろな事情もあるのでしょうが、そういう場合、元に戻すのが預言者であったり、リーダーである王の役割でした。

 

 さて、ローマの皇帝アウグストゥスの命令で、身重の妻を連れて、ナザレから故郷ベツレヘムに行くことに文句を言わないヨセフにとっては、なおのこと、神様の求めに一家で従うのはごく当然です。それは家族で過ぎ越しの祭りを祝うことも含みます。

 

 41節、「イエスの両親は」とあり、主イエスは含むのか、含まないのか。ここも、主イエスを含むと理解していいと思います。主イエスが12歳になった時も「両親は」とあります。

 

 43節、なぜ両親はエルサレムにとどまっておられる主イエスに気づかなかったのか。もう大人と認め、自主性を重んじていたが、祭りが終わったので、留まるのではなく、帰路にあると考えたか。一緒にいった親族や知人の中にいるのだろうと思って探すも見当たらない。

 

 ヨセフとマリアはエルサレムに戻ります。1日の道のりを進んだので、もう1日かけてエルサレムに戻り、主イエスに会えたのは3日後になります。

 

46節、「そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」と言う。

 

 「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」これは、叱っているのか。理由を尋ねているのか。さあ、帰りましょうという促しなのか。ヨセフは何も語らないのか。

 

二人は「イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」ということは知らないのか。主イエスがどんな顔で、どんな声で、教師たちと対話していたか。

 

49節、主イエスは両親に「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と言われたが、両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。両親は子どものことと自分のことを常に考える。主イエスにとっての父とは誰か。主イエスはご自分の父である神様の事柄をいつも思いめぐらす。

 

私たちは、ヨセフとマリアが探しに来なければ、イエス様はずっとエルサレムにとどまったのか、あるいはしばらくして、ナザレに戻られたのか、本質的でないことを考える。

 

主イエスは両親と一緒にナザレに帰り、両親に仕えられた。マリアが「これらのことをみな、心に留めておいた。」というのは、両親に仕えたことだけではなく、この日のエルサレムでの理解できなかった事柄も含むでしょうが、主イエスを自分の胎に宿す前に、御使いが「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」も含むすべてのことだと思います。

 

 神様から恵みを受けたマリアであっても、神様のなさるすべてを理解し尽くすことはできない。いや、一つずつ、受け止めていかなければ、一度にすべては受け止められない。その折々に、確かにこの子は神の子であると実感を深めることになります。イエス・キリストは完全に神としての性質と完全な人間としての、ある場合矛盾することもある性質を持ち合わせていました。

 

52節、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」と短く語り、あとは公生涯のスタートまで、何も語りません。ヨハネは福音書の最後に「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」と、すべてを書き尽くせない理由を記しています。

 

さて、12歳の主イエスと対話した、宮にいた教師たちは、この少年イエスについてどう思ったのか。そばにいてやり取りを聞いていた群衆と同じく、ただ、イエスの知恵と答えに驚いただけだったのか。

 

主イエスが公生涯をはじめ、祭司長、律法学者たちは、主イエスと対立したが、自分たちのもとで正規に学んでいないというだけで、排除しようとしたのか。もちろん、自分たちをはるかにしのぐ律法の理解と生き方、また、癒しや群衆を従える主イエスに対するねたみもあったが、約18年前に対話したあの少年であることを思いだす者はいなかったのか。輝く主イエスに対面しつつも、自分たちの群れの中にいない者は攻撃の対象で、自分たちのもとに留まれば留まったで、自分たちの影響下に置こうとするのか。どんなに主イエスが素晴らしくても、主イエスを神と認められなければ、救い主と受け入れられなければ、祭司や律法学者であっても、どんなに聖書の知識があっても、救いを自分のものとしていただくことはできないのです。

 

 

 マリアは主イエスに関する「これらのことをみな、心に留めておいた。」のですが、私たちも、子育てだけではなく、自分の生涯において、主のなされた導き、教え、恵みを覚える者です。個人のこと、家庭のこと、教会でのこと、社会でのこと。そして、私たちが信じている主は今もいつも、共にいて導き、祝福してくださることを覚えます。だから、生涯にわたって、信頼して、従っていけるのです。そして、この主を世界に対して、証ししていくのです。


202417日 主日礼拝 マタイの福音書213-23「逃避と帰還」

 

 新改訳聖書2017で言うと、新約聖書には「夢」という言葉が11回出てきます。福音書には6回。しかも、マタイの福音書だけに出てきます。しかも新改訳聖書2017の新約聖書23ページに5回出てきます。120節はヨセフに対して、マリアの妊娠についてでした。212節では博士たちに対して、ヘロデのところには戻らないようにという警告でした。

 

 夢は、一般に、その人の願望であったり、思いの中で溢れるものかもしれません。寝ている時に見る夢は、眠りの浅い時に見るようですが、起きたときには忘れていることが多いと思います。神様に直接会うことを恐れる人に、神様は眠りを与え、その中で、記憶に留まるように、告げられる夢は一般ではないかもしれませんが、旧約時代から、アブラハムも夢で将来のことを告げられ、ヤコブの息子のヨセフも夢で告げられ、ヨセフの周りの人も、ダニエルの周りの人も、夢を見て、ヨセフやダニエルに解き明かしを受けました。

 

 マタイの2章、3章では、誰かの解き明かしを必要とせず、夢を見た本人がその意味を理解しましたが、マリアの夫ヨセフは、主の使いが夢で告げられるということを4度経験し、毎回、その指示に従っています。そして、大事ないのちを守っています。

 

 ヨセフにとって、1回目はマリアの胎にいる子は聖霊によるものであることを告げられますが、2回目は、博士たちが幼子を礼拝した後のことです。ベツレヘムで御子が生まれるという預言があったわけですが、博士たちが来る前にエジプトに行ったのであれば、博士たちは黄金、乳香、没薬をささげられませんでした。博士たちに会った後なので、そのささげものが、移動や滞在の費用として用いられたと考えられています。ここにも、神様の配剤、ご配慮があります。

 

 それは私たちが、いつも、何の備えもする必要がないというのではなく、神様の命じるところに従う時に、備えがないことで従えないということはないということ。むしろ、ここでは、ヨセフが従うために、博士らの備えが用いられた。しかも、身近にいたのではなく、遠くからわざわざ来て、宝をささげた。

 

 私は個人的に「逃避」「逃亡」「逃げる」という言葉は好きではありません。しかし、私が好きか好きでないかにかかわらず、主の使いが「逃げなさい」という時がある。しかも、ユダヤ人は先祖が奴隷生活した「エジプト」は嫌であったでしょう。しかし、ヨセフにとっても、逃亡先がどこであれ、好き嫌いは言えない。子どもが幼いとか、エジプトには知っている人が誰もいないとかではない。ヨセフは主の使いを信頼して、速やかに従いました。神様も気持ちいいでしょうね。だから、ヨセフは選ばれていたのではないかと思えます。もちろん、ヨナのような不従順な人も用いられていますが。

 

 いつまでエジプトにいるかは、主の使いが知らせるまで。逃避する理由は「ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしてい」るから。いつまでもエジプトにいるわけではなく、危険回避のために逃げるということで、ヨセフには十分でした。

 

 私たちが主の使いによる夢を見たら、いつ行動するでしょうか。私たちはあれこれずっと思い巡らすのかもしれません。14節、「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」素晴らしいですね。夢で告げられて、起きて、直ちに行動しました。実は、エジプトへの逃避とナザレへの帰還はマタイの福音書にしか書かれていませんが、マタイは、ヨセフのこの行動が、主の使いが夢で語られたからという理由と、旧約聖書の預言に基づいていることを記します。というのも、主に、読み手をユダヤ人にしているために、ヨセフの行動が預言の成就であったことも、伝えています。預言と成就という言い回しは、ルカとヨハネと使徒には各1回ずつですが、マタイでは12回、記されています。

 

「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」はホセア書111節の引用です。これは、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出したことを語っている面と、御子がエジプトから呼び戻されることとして書いています。

 

ヘロデは、博士たちに、幼子に関する情報、生まれた場所や御子であることを表す特徴を聞き出そうとしていましたが、博士たちは主の使いに従って、東の国に帰って行ったので、ヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」とても残忍です。ある意味、メシアが生まれても、ヘロデの在任期間中、その地位を揺るがすことはなかったでしょう。イエス様が生まれたときヘロデは6668歳ぐらいだったと思われます。だから、幼い子を殺害する必要はなかった。しかしこの出来事も、エレミヤ書3115節の預言「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」が成就することになります。「神様。こんなひどいことを預言しないでください」と思う人もいるかもしれません。神様がこのような悲惨な事件が起こることを定めたのではなく、ヘロデが行うことを語ったのです。人々は、そういう人物を王の座から引きずり下ろすこともできなかったのです。

 

 幼児虐殺のあと、ヘロデは死にます。「主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。『立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。』」エジプトの方が文化的で、賑わいもありました。生活もしやすかったと思いますが、ヨセフは主の使いが語ったことに従い、イスラエルに戻ります。

 

 ヘロデには判明する限り5人の妻と7人の息子がおり、ヘロデの死後、アルケラオには「王」の称号は与えられず、「民族の統治者」として10年間、ユダヤの地を治めますが、あまりにも残忍であったため、この度は、ユダヤ人とサマリヤ人がローマ帝国に訴え、アルケラオは役割を奪われ、ゴール地方に流刑され、その後、ユダヤはローマが直轄統治することとなります。アルケラオの異母兄弟ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレヤの国主、ヘロデ・ピリポも貧しいガリラヤ湖東岸地方の国主となります。ちなみに、このヘロデ・ピリポがヘロデ・アンティパスの妻、ヘロデヤを略奪し、それを咎めたバプテスマのヨハネの首を、義理の娘サロメの願いに応え、ためらいつつ、切落させます。

 

 

 国主であっても、法も理性もなく、あるのは欲望と地位と権力。ヨセフ一行はもといたナザレへ帰還します。これも、預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。それはイザヤ111節のことであるとの指摘もありますが、名称が変更されているのか、旧約聖書には「ナザレ」に関する言及は見つかっていません。


20231231日 主日礼拝 詩篇1181-29「神様は素晴らしい」

 

 いつの時代にも、聖句そのものにメロディーをつけて賛美することが行われています。そうした賛美の中に「主は素晴らしい-Oh, God is good」という曲があります。日本語の聖書で「主は素晴らしい」という表現はありませんが、英語の聖書の中には、God is good.は度々出てきます。詩篇1061節、1071節、今日の118篇の1節と29節は、God is good.となっています。

 

ヘブル語原典では「感謝せよ。主に。良いから。主の恵みはえいえんだから。」とあります。訳し方によりますが、新改訳では「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」としており、英語は「主に感謝せよ。主は良いから。主の恵みはとこしえまで。」となります。日本語では単に「良い」というより「まことにいつくしみ深い」と神様にふさわしく訳したいんだなと思います。

 

ヘブル語で「良い」は「トーブ」と言います。なぜGod is the bestではないのか。Goodの中に、Bestも含まれているからです。神様は素晴らしく、最高で、一番ではあっても、「良い」という。教会福音讃美歌1番に「聖なる 聖なる 聖なるかな」とありますが、これはイザヤ書63節が元になっています。これはヘブル語では最上級は同じ形容詞を3回使ってそのことを表すので、原典では「カドーシュ、カドーシュ、カドーシュ」となっています。

 

人間は、その世界で1番の者、超越した者、優れた者を神としますが、聖書の神様は天地の造り主で、全知全能で、愛のお方であり、唯一で、さらに加えて、神様が良いお方です。そうした神様であるのに、7節の助けについて、旧約聖書の「助け」は神様に関して一番多く用いられています。私たちにできることを助けてくださるのではなく、私たちにできないことをして下さるがゆえに助けとなっています。

 

 詩篇118篇の8節、9節は直訳すれば、「主に身を避けることは良いことです。人に信頼するよりも。」「主に身を避けることは良いことです。君主たちに信頼するよりも。」とあり、ここにも「トーブ」が出てきます。良い方のもとにいるのが一番良いことです。

 

 新約聖書にも「良い」という言葉が出てきます。ルカの福音書1818-19節では「ある指導者がイエスに質問した。『良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』19 イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを「良い」と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。』」とお答えになっており、ここではご自身に「良い」とつけられるのをためらっているというか、戸惑っています。

 

 この指導者が心からイエス様に、「良い(アガソス)先生」と呼びかけているのか。良いお方、すなわち、それは神様のみですという意識をもって問いを発しているのかを吟味するものであります。誰にでも簡単に「良い」という形容詞をつけてはいけないという戒めでもあります。

 

ヨハネの福音書1011節では「わたしは良い(カロス)牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」と語っています。そして、確かに、イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。羊のためにいのちを差し出す羊飼いはなかなかいない。だから、イエス様こそ「良い羊飼い」という名に当てはまります。

 

 私たちはその人が良い人なのか、普通の人なのか、悪い人なのか、見極めようとします。悪い人であれば、離れるか、距離を置く。良い人であれば、距離を詰める。ただし、普通の人は良い面が出たり、悪い面が出たりするので、そのことを踏まえてお付き合いする。

 

 では、神様との距離はどうしたらいいのか。人間が神として奉る神ではなく、天地万物と私たちを造られた神様に対してどうするか。神は愛ですとありますが、人間が考える愛には、制限、限界があります。でも、神様の愛には限界、制限はありません。

 

 「今日雨だった。」「今日怪我をした。」「今日物を無くした。」「失敗した。」「自分が願った一日と違っていた。」そこには、私たちの責任もあるでしょうが、こういう状況に置かれた神様は、私たちの願いを知らなかったのか。願いを知りつつもできなかったのか。

 

 私たちが信じる神様は変わることのないお方。その日の気分でものを決めない。エレミヤ書291114節に「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」とあります。

 

 私たちがうまくいったとか、行かなかったと思おうと、ローマ人への手紙828節では「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益(アガソス)となることを、私たちは知っています。」とあります。

 

 同じ「良い」でも、アガソスは人には用いず、本質的善を、カロスは外面的善を言います。正しいに近い「良い」がアガソスで、美しさに使われる「良い」はカロスです。

 

 さて、詩篇118篇は14節までは感謝することと、告白するように命じられています。主が良い方であることを知っていれば、自ら感謝し、賛美できますが、主が良い方であることを知らなければ、主が良いお方であるという神様への信頼、信仰が必要です。

 

 514節はエジプトでの寄留生活であったり、荒野での苦しい生活にも重なります。しかし、共におられつつ、あえて、そうしたところへ導かれた。15節からは主の守りと支えです。22節からはイエス様について引用されることのあるところです。別の分類では59節は深刻な制限、1016節は外部の嫌がらせ、17-18節は病、そこからの解放です。

 

 

 私たちは私たちを愛してくださり、良いもので満たしてくださる、良い神様を知るものとされていることに感謝しましょう。


20231224日 クリスマスファミリー礼拝 ルカの福音書146-55

「主のあわれみ-真実な愛」

 

 クリスマスおめでとうございます。

ルカの福音書146-55節は簡単にマリアの歌、マリアの賛歌と言いますが、ラテン語を使ってMagnificat(マグニフィカト)と言われることがあります。意味は「あがめる」「たたえる」です。由来は46節の「私のたましいは主をあがめ」にあります。ラテン語訳もギリシア語訳もあがめるを意味するMagnificat、メガルネイが冒頭に来ます。

 

 マリアの賛歌は「私」が神様をたたえる主体となっています。それは主が「この卑しいはしために目を留めてくださったから」です。そう実感したからです。年若い自分に、救い主誕生に関わる役割を与えられたという喜びも含みます。

 

 私たちはマリアと同じ役割を担っているわけではありませんが、マリアと同じ気持ちで主をたたえることができます。

 

 46節の「私のたましいは主をあがめ」と47節の私の霊は私の救い主である神をたたえます。」とは、旧約の詩の特徴の言い換えです。強調となります。「卑しい」とは、地位、身分の低いこと。境遇を言うこともあり、品位の低さも言います。神様と自分を比べてこう言っているのか、ダビデの家系であるのに、今は王位にはいないという意味かもしれません。私たちも神のかたちに造られつつ、罪により、卑しいものとなった。そして、ここで卑しいと訳されていることばは、ピリピ28節の「自らを低くして」と訳されている、神であられるイエス様が人となられたところでも使われていることばでもあります。

 

マリアは「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」という。男性は子どもを宿すことはできませんが、女性の中にはマリヤのように神の子を宿したいと思われた方もいるかもしれません。しかし、イエス様が完璧な救い主なので、第二、第三のマリアは不要です。「幸い」ということで言えば、山上の垂訓に従って歩む者も幸いな者です。しかも人々が言うのではなく、主イエスが幸いですと言われる。

 

マリアが人々に幸福な者と言われる理由は、力ある方、神様が、マリアに処女懐胎という大きなことをしてくださったから。私たちは主イエス様が私たち罪人のために十字架にかかり、贖ってくださるということ。神の御子がマリアに宿り、神の御子が私たちの罪をとり去り、聖霊が御子に代わって、私たちのうちに住んでくださる。これは幸いです。

 

さて、50節から「あわれみ」が50節、54節、55節と3回出てきます。原文では50節、54節の2回です。55節は補足です。あわれみの意味は原文でも、かわいそうに思うこと、同情、慈悲です。脚注では「真実の愛」とあります。

 

神様は「心の思いたかぶる者」を許さない。神様を認めず生きている者は傲慢です。一方で、悲しみを知っている者を顧みてくださる。あわれんでくださる。悲しみの原因はいろいろあるでしょう。一言でいえば人間の罪が悲しみの原因です。その罪が広がる。神様の力は義のために使われる。実力で権力ある地位に立っても、正しくなければ引き下ろされる。逆に、正しく生きていても踏みつけられてきた者に対しては、人としての座を回復をしてくださる。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返される。

 

マリアはローマ帝国に苦しめられたことを言っているのか。ローマの名を借りてヘロデが悪さをしていたのか。両方当てはまると思います。

 

マリアがたどれる祝福の原点は先祖アブラハムです。そして、胎に宿した子の誕生がイスラエルが助けられるところ、喜びと希望の満ちるところと見ています。

 

ザカリヤも、息子ヨハネが誕生したとき神様をほめたたえています。ここにもアブラハムへの誓い、ダビデ家の存続、御民が見守られ、助けられる確信があります。72節に主が先祖たちをあわれまれたこと、そして敵からの救出、主に仕えていくこと、神様を恐れ正しく生きていくこと。そのために生まれた先遣者ヨハネ。このことに関して78節「 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」と語ります。神様のあわれみ、真実な愛が神様の救いの御業の根底にあります。

 

 神様は不正を憎まれ、虐げを嫌われる。ご自分の造られた人間がご自身にあって喜びに溢れることを願っておられる。だから、見ておられ、顧みてくださり、救い主をお遣わしくださった。

 

 二つの意味で、人間は「神はいるのか」と問います。一つは、自分が正しいのに虐げられている点で。もう一つは、自分や他者が悪を行なっているのに裁かれないことにおいて。神様の働きが、正しいことをした時と悪を行なったときに、ただちになされると良いと思う人は多いと思います。神様を直ちに実感できるから。しかし、アダムの罪も、その後の罪も、霊的には瞬時に神様との関係をむしばみ、長い時間を経て死に至ります。これも神様の人間に対するあわれみ、神様の真実な愛です。そして、神様に喜ばれる私たちの正しい行いも、瞬時に報われるのではなく、永遠をかけて報われる。これも神様のあわれみ、真実な愛です。つまり人間は遅かれ早かれ「神様はおられる」ということを実感します。

 

 そうであれば、神様を知る、神様との関係回復を持つことは早い方が良い。今すぐが一番です。それはもたもたして、賢明な選択をしないまま、神様の裁きの前に立たされて悔やむことがないようにするためです。

 

 神の御子がなぜ人となって生まれなければならなかったのか。なぜ、あわれみだけでは十分ではなかったのか。いろいろな答えはあると思います。1つはヘブル人への手紙 2章18節「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」神様だから、人のことはわかるが、あえて人となってくださった。

 

もう一つ、同じヘブル人への手紙4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」やはり真実の愛に満ちた方であるからこそ、あえて人となられた。素晴らしい神様です。感謝とともに心より私のたましいは主をあがめます。


20231217日 主日礼拝 マタイの福音書118-25「夢でヨセフに」

 

 伝えられる情報に関して、人によって関心があったり、なかったりする場合もあれば、関心があっても、人によって重要度の差があるでしょう。ユダヤの王にヒゼキヤという人物がおり、預言者イザヤが病気のヒゼキヤに「あなたは死ぬ」と伝えると、ヒゼキヤは「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」と言って、大声で泣いた。ところが自分の子孫がバビロンの王宮で宦官となって仕える者が出てくることを聞いても、自分が生きている間は平和と安定であると思って、悔い改めも、とりなしも、嘆願も、改善も何もしなかった。(2列王記20章)

 

 それと同じように、現代でも、自分が生きている間、平和であり、安定していればいいと思うことが多い。化石エネルギーが枯渇しても、地球が温暖化しても、この国の少子高齢化が進んでも自分が生きている間、何とか行ければ問題なしと考える。

 

 日本には王はいませんが、どこの国の王でも、大統領でも、首相でも、その地位にあるものが、国民のことを考えずに、自分のことしか考えないとすれば、その国の者は決して幸せになれない。もし、上に立つ者が、人々のことを大切にするのであれば、その国でも会社でも学校でも、ある程度幸せになれる。もちろん、人々のことだけではなく、神様のことを第一に考えて歩む王、大統領、首相、社長、校長、リーダーがいたら、人々はもっと幸せになれる。

 

 神様は、ソドムとゴモラの叫びを聞き、まず、現地視察に行きます。その際、「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と考え、アブラハムに伝え、アブラハムの意見を聞き、とりなしを受けられた。悲しいことに、町には五十人の正しい者どころか、十人もおらず、計画は実施されます。しかし、神様は、義人とされたアブラハムに隠さず、告げられたということはアブラムを信頼しており、パートナーとして扱っているからです。(創世記18章)

 

 対比になりますが、サウル王は、ダビデに嫉妬し、ダビデを殺害しようとします。今までサウル王は息子のヨナタンに、大切な事柄を伝えておりました。だから、もし父がダビデを殺害するならば、そのことも知らせてくれるはずだとヨナタンは信じている。しかし、ダビデは、サウル王がヨナタンを悲しませないために、あえて知らせていないのでしょうと言う。ダビデの考える通りでした。ヨナタンに知らせたら、ダビデのように忠実な者は他にはいませんと言って、サウルの殺害計画を阻止するからです。(1サムエル記20章)もはやサウルは息子さえ信頼できない。

 

 神様は、人を救うために、御子を人として遣わされた。アブラハムの子孫を石ころ(マタイ3:9)からでも誕生させることがおできになる神様なので、人を介さず、赤ちゃんでも、青年でも、成人でも、地上に置かれることはできた。しかし、ダビデの子孫としてということなので、人を介さずにというのでは、成り立たない。マリアは、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ1:38)と天使を通して告げられた神様の約束を受けとめた。

 

 私が神様を信じていて幸せなのは、神様は人を愛して、人を救ってくださるだけではなく、神様であるのに、人間の友となってくださること。そして、神様が計画していることが一番であっても、それを人間に押し付けず、受け手の了承をとってくださること。もし、受諾できないなら、変更されることもあること。

 

 ヨセフにとっては、いくらマリアが「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と言ったとしても、こっちの身になってくださいと言えたことでしょう。ヨセフが横暴で、自己中心で、わからずやであったのではなく、ヨセフは正しい人であった。だけど、聖霊によって身ごもっているということがどれだけ理解できたか。ヨセフが思い巡らせていたのは、マリアをさらし者にしないということ。そしてひそかに離縁しようということ。

 

 神様はヨセフの思いを知っておられ、直接ではないが、主の使いが夢でヨセフに語られる。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 

 私たちは、ある現象をいろいろ解釈します。しかし、神様は、事前に、預言を通してことをなされます。特に、メシアの誕生に関しては。たまたまではなく、神様が意志されていることを人間に示すために、事前に伝え、起きたことが確かであることを示します。

 

 また、神様が預言されたことは、たとえイザヤから700年経過しようと、更に主の昇天から2000年経過しようと、必ず実現する。実現しないのであれば、神様は全知全能ではなくなる。全知全能であれば、預言された通りになる。

 

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマが一緒、ヌが私たち、エルが神。インマヌエルの意味は「神が私たちとともにおられる」

 

 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れます。夢を疑わないかった。そして、マリアが出産するまで、マリアと性的関係を持たなかった。そして命じられた通り、この名をイエスとつけた。ヨセフは正しい人です。だから、この二人に神の御子は預けられた。

 

 プロテスタント教会は、神の母と言ってことさらマリアをあがめません。ヨセフに関しては聖書に記されているだけです。だけど、聖書に記されていることはすごいことです。そして神様に「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と御国に迎え入れられたことを思います。

 

 聖書を通して、私たちは、神様と隣人を愛すること、福音を伝えること、善を行うことなど命じられています。命令は今の時代では喜ばれなく、勧められている、求められている、と和らげていうと良いでしょうか。重要度が増せば、夢で見たり、天使に対面したりするのでしょうか。

 

 

 ある国では、国が取り組んでいることが秘められている。国民をだましているからでしょうか。神様はすべてではないがほぼほぼ、ご自身の思いも計画も聖書を通して告げておられる。それは、私たちを幸せにすることです。告げられていないことは、主イエスの再臨の日時です。これには、人間が焦ったり、怠けたりしないための幸いな意図があるのでしょう。


20231210日 主日礼拝 ルカの福音書15-38「御使いを通して語られた神様の約束」

 

 新約聖書はギリシア語で書かれていますが、一般に、ユダヤ人の名前はヘブル語に由来します。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは「「主を覚える」か、「主は覚えておられる」という意味です。母のエリサベツは「私の神は誓い」か、「神はわが誓い」となります。アビヤは「私の父は神」という意味で、男性にも、女性にもこの名の者がおり、歴代誌第一の24章に、アロンの子孫で、24組に分けられた祭司の組があり、アビヤは第8組でした。アロンから続くので1500年近くの歴史を持ちます。2節に「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」とあり、模範的な夫婦でしたが、彼らには子どもがいませんでした。そして、二人ともすでに年をとっていました。

 

 ザカリヤの属する組が当番で、ザカリヤの受け持ちはくじで決められ、主の神殿に入って香をたくことになった。すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。私は御使いに会ったことがありませんが、会えば、取り乱し、恐怖に襲われるのかもしれません。ただし、聖書を見ると、御使いは相手の状況を見て「恐れることはありません」と言ってくださる。また、相手の名前も知っておられる。そして、神様はザカリヤの願いを知っておられる。それは心にいだいていたことなのか、常日頃祈っていたことなのかわかりません。人間的には、もう、あきらめていたことなのかもしれません。「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びますその子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされイスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と語られる。これはすごいこと、恐れ多いことです。祭司として神様に仕えるのも素晴らしいことです。しかし、生まれてくる子は預言者なのか。預言者も大切な働きですが、旧約の民であっても、すべてが神様のことばに従ったわけではない。しかし、生まれる子はイスラエルの民を神に立ち返らせるという素晴らしい働きを担うと告げられる。

 

 ザカリヤは「ありがとうございます。わかりました。」とは言わず、「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」と言ってしまいます。どちらかというと疑っているように思える。ザカリヤは理性的で、合理的で、客観的な判断を下すわけですが、自分が仕えている神様のすごさ、力を理解していませんでした。

 

 御使いのお告げは、神様の視点から見て、良い知らせですが、ザカリヤにとっては信じることのできない事柄でした。ある意味、ザカリヤにとっては受け止めることができない事柄ではありましたが、神様は、告げられた通りのことを行います。一方、妻のエリサベツは「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と受けとめました。主が自分に目を留めてくださること喜べるのは、ある意味、正しいからでしょう。罪人にとっては、神様に目を留められることは恐ろしいことです。しかし、キリストの救いをいただくと、罪人も、神様に目を留めていただいていたことに感謝と喜びが生まれます。エリサベツは、年を重ねても、いや、年を重ねるほど、わが子を抱いたことがなかったことを恥と思っていました。そして、子を宿し、恥を取り除かれたと思う。周りの人を気にすると恥が生じたり、誇りが生じたりしますが、神様に心を向けると賛美と感謝が生まれます。しかし、エリザベツを喜ばせたのは子の誕生であって、生まれてくるヨハネが担う神様の働きの方ではない。神に仕える模範的な夫婦も、神の働きより、自分たちの面目が先になっている。

 

 イエス様より約半年早く誕生するヨハネ。イエス様の公生涯開始が30歳とすると、ヨハネは30歳の前半で、ヘロデに殺されることになります。おそらく、ザカリヤとエリサベツはその前に帰天したのでしょう。だから、気持ちが高められ、突き落とされるということはなかったでしょう。自分たちよりもヨハネが先に死んでいたら、神様に仕える喜びよりは、むごさを感じたでしょう。しかし、ヨハネ自身はすべてを受けとめています。

 

 妊娠・出産の適齢期というものがあるとすると、エリサベツはその時期を逸したにもかかわらず神様が夫婦に子を与え、ガリラヤのナザレに住む処女マリアには、結婚前に、聖霊によって胎に子を預けられます。お告げのないまま、妊娠したとなれば、特別のものではなく、通常のことですが、いずれのお告げ、神様の約束も、ガブリエルによって伝えられます。特別の意味、特別の使命・役割があったからです。ガブリエルは「神の人」あるいは「神は神ご自身を強いものとして示された」の意味。ヨセフは「神が加えてくださる」の意味。マリアはミリアムと同じで「苦しみ」という意味もありますが「愛された」の意味です。

 

御使いがいきなり「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言うので、当然マリアは「ひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」が御使いは、ここでも「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」と、想像もつかないことを言う。あるいは、マリアは、ダビデ王の家系であることを思っていたかもしれませんし、旧約聖書の約束を覚えていたのかもしれません。

 

マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と聞きます。御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」という言葉で納得しました。そして「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と答えます。マリアは素直で、聡明で、度胸というか、覚悟というか、神様の告げられる約束をしっかり受け止めるという信仰を持っていました。

 

今の時代でも、御使いが現れて、神様の約束を告げられる可能性があることを否定しません。しかし、大方、私たちには聖書に記されていることが重要だと思います。誰にでも語られていることなのか。いや、誰にでもない。信仰をもって受けとめる人にしか響かないのではないか。信者か信者ではないかより、聖書に書かれていることばを神様が私に向けて語られていると信仰をもって受けとめるのでない限り、書かれていても、語られても、届かない。しかし、受けとめるのであれば、国籍も老若男女も関係なく、力が伴います。


2023123日 主日礼拝 マタイの福音書11-17 「主イエスの先祖の記録」

 

 今日は、マタイの福音書とルカの福音書から、イエス様の家系を見ます。

 

 私は身上書とか、釣書を見たこともなければ、書いたこともありません。結婚相手を決めるとき、見た目だけで決める人もいるでしょうが、大抵、その人物がどのような人間なのか、その人を観察したり、聞いたりして、決めると思います。もちろん、日本の憲法であれば、成人した男女の結婚は両性の同意のみに基づいて成立しますが、親や周りの助言が絶対ではないものの、参考にすることもあるかと思います。

 

 中には、相手の人柄だけではなく、家柄、学歴、職業、収入、健康状態、将来性なんかも調べるのでしょう。ただし、私の場合、曾祖父までは遡れても、それ以上は遡れません。誰でも、親や先祖の仕事や人柄ではなく、自分自身を見てもらいたいと思いますが、様々な情報は参考になっても、絶対ではありません。仮に、かつては豪族で、城主で、地元の名士だとしても、今は普通の人であれば、やはり、先祖の過去は重要案件ではありません。今は普通の人でも、将来著名な人物になるかもしれません。

 

 二つの福音書に、なぜ、イエス様の先祖の記録、つまり、家系が記されているのか。もちろん、イエス様は独身でしたし、結婚に関係するものではありません。イエス様の生きられた文化が、家系を大切にしてきました。旧約聖書にも記されていますが、祭司の家系のものでなければ、祭司になれないということがあり、エズラ書、ネヘミヤ書に記されていますが、他の民族との結婚が許されず、他の民族と結婚していた場合、離婚を求められるようなこともありました。

 

 さて、ユダヤ人であるマタイが書いた系図は、信仰によって義とされた信仰の父アブラハムが重要人物で、アブラハムの子孫であること、また、ダビデの子孫であることが記されています。

 

 そして、マタイは収税人であったためか、福音書全体では37などの数字にこだわっている部分があり、ここでも17節、アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代です。確かに、アブラハムからダビデまでは14代ですが、次は、再びダビデをカウントして、エコンヤまでが15代となるので、ダビデを抜いて14代。

最後シュアルティエルからイエス様まで、13代です。なのでダビデからヨシヤを、ダビデも含め14代とし、捕囚で切って、エコンヤからイエス様までが14代でとなります。つまり、ダビデは2回数えられていることになるか、一人抜けたかということになります。

 

 これは聖書に間違いがあるということか。そうではなく、そのように数えているということです。皆さんが旧約聖書と照らし合わせてみると、ヨラムとウジヤの間にアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤが存在していますが、このリストから外れています。いろいろ理由が考えられますが、単純に3つの14代に収めるためです。また、アハズヤは北王国の悪王アハブの子と同じ名であり、母はオムリの孫娘。そう言うこともあり、アハズヤの子ヨアシュは北イスラエルに協力的でした。だからアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤは抜き、ウジヤから入れたと理解できます。そして11節ではヨシヤとエコニヤの間のエホヤキムが省かれています。やはり、14代にするためです。

 

 しかし、ユダヤでは女性は余り表舞台に出てこないのに、ペレツがユダとタマルによって誕生したこと、ボアズはサルマと遊女ではないかと言われるラハブから生まれたこと、オベデがボアズとルツによって生まれたこと、ソロモンがダビデとウリヤの妻バテ・シェバによって生まれたことを記しています。

 

 ある面、人には隠しておきたい事柄が堂々と記されているわけですが、この家系図では、それよりは不信仰であること、神様よりも偶像に頼り、偶像を拝む家系を除去しているように思えます。当然、人のいのちは父と母がいなければ誕生しません。だから、タマルの偽装売春婦、ラハブの売春宿の女主人としての職業、異邦人ではあるが、ナオミの信じる神を自分の神としたルツ、そして、夫を持ちつつも、ダビデに近寄るバテ・シェバではあっても、不思議なことに、キリストの家系に加えられています。これは、彼女たちの熱心以上に、生い立ちや家庭に様々な事情を抱える私たち人間を救うための、神様の決意を示していることを思います。

 

 人間、だれでも、すべてをご存知の神様のもとには、近りがたい。しかし、過去や血筋を問うのではなく、信仰を問われる神様を現わしているのでしょう。

 

 マタイではアブラハムからヨセフまで若い世代に向かって記されていますが、異邦人向けに記されたルカの福音書では、ヨセフからアブラハムまで、そしてアダムと神様までさかのぼります。ある人はこの家系図はヨセフ経由の家系図とマリア経由の家系図といいますが、それを確信させる手掛かりはありません。ただ、双方で名前が違うのは事実。マタイ(ダビデ-ヨセフ27)は王としての法的系図、ルカ(ヨセフ-ダビデ42)は実際の父親ではないかと言われます。

 

これらのイエス様の系図で言えるのはヨセフとマリアは紛れもなく、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫です。

 

 そして、ヨセフとマリアは人間ですが、イエス様は人間になられたということ。マタイの福音書116「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。」とあり、今までは父が子を生んだ、正確には「もうけた/得た」ですが、ここは「マリアからお生まれになった」という。

 

 ルカ3章23節前半では、「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」とあり、みんなてっきり、ヨセフの子だと思っていた。しかし、主イエスの誕生までは、ヨセフとマリアの子が生まれるという関係になかった。

 

 イエス様の誕生の経緯が別に書かれているので、ここではっきりさせなくていいのですが、そのことを示唆するものです。

 

 

 その国の法律によっても違うでしょうが、ヨセフは主イエスの法的な父であったと言われます。それは外形的にと言えますし、マリヤを妻としたので、妻であるマリアの子に対して、ヨセフは父となります。しかし、聖書では処女から生まれたこと、よってアダムの罪を持たないとみなします。そして、預言通り、約束通り、神様の意志によって人となられたことを覚えます。


20231126日 伝道礼拝 ヨハネの福音書737-39 「わたしのもとに来て飲みなさい」

 

 人によって、暑い、寒いは感じ方が違うと思いますが、今年の夏はとても暑い日が続きました。いつも夏場は、脱水症にならないように水分を十分に補給するように、熱中症にならないようにクーラーを使用するように勧められます。しかし、自分ではのどが渇いていないとか、渇いているけどトイレに行くのが面倒だとか、このぐらいの暑さは大丈夫だとか、昔はクーラーがないのに乗り越えてきたと、節約もあったり、頑張ってしまうことがあります。

 

 しかし、今は昔より、世界的に平均気温が上がり、東京だって、昔と今では、舗装道路、建物が増え、畑や原っぱは縮小していると思います。そして、私たちの身体も、みずみずしかった幼少期、少年期、青年期とはちがう。

 

 聖地旅行でイスラエルに行くのは花の咲く3-4月に行くのが良いとのこと。しかし、今はガザ地区との戦争でいつ行くのも危険だと思います。私は神学生の3年の時、選択授業で、発掘と聖書地理の学びのために夏休み期間の7-8月に、4週間滞在しました。体がアイスクリームのように溶けてしまうような暑さ。作業は日の昇る前の4時から10時半まで。昼は昼食をとって昼寝です。一番しっかり語られた注意事項は水分補給でした。発掘中は現場に大きなタンクがあって、好きなだけ水が飲めたのですが、車で北や南に行くときは、お店で、2ℓペットボトルの水を買って、11-2本空けるわけです。日本でも、ペットボトル入りの水は売ってはいましたが、当時は正直、水を買うのは抵抗がありました。でも水分を取らないと、若くてもいのちの危険があります。

 

 さて、今日の聖書箇所は、仮庵の祭りのことと思われます。シロアムの池から水が運ばれているそうですが、イエス様は大きな声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言われた。ヨハネはその生ける水とは、キリストを信じる者がペンテコステの日とそれ以降に受ける聖霊であると解説しています。それは神様との霊的交流のこと。

 

 私たちのさまざまな言動にはそれなりの理由があります。愛されていても、愛されていると自覚しなければ、愛されることを欲する。愛されることを欲するのは全く悪くはないが、間違った方法によることもある。間違ったゴールもある。ストレスは誰でも感じると思いますが、適度な栄養や休息であればいいが、そのストレスが過剰になり、対処も過剰になる。アルコールや薬物、ギャンブルなど、本人がそれに依存してしまうのも良くない。

 

 強いストレスを与えてしまうのも人間の罪のせいです。そして、適切な対処ができないのも罪のせいです。罪のせいで、人は造り主から離れてしまった。造り主の元に戻ればいいのに、罪のせいで元に戻れない。しかし、感謝なことに、イエス様が、私たちのところに来てくださった。人間はエデンの園から追放されたが、イエス・キリストによって、聖霊なる神様が私たちのうちに住まれ、私たちの心を潤してくださる。

 

 面白いことに、ヨハネの福音書では、イエス様が渇きのことを続けて語っています。前後しますが、4章では、イエス様はユダヤ人が避けていたサマリヤに行き、真昼に井戸の水を汲みに来た女性に「わたしに水を飲ませてください」と語り掛け、ぶつぶつ言うその女性に「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」という。それでも理解できない女性に「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」という。そして、イエス様とのやり取りを通して、この女性もイエスがキリストであることを知り、町の人々もキリストを信じます。彼らはキリストとは何かを知っていた。キリストとは、神の働きのために神様に油を注がれた人物です。人々の救いのために遣わされた救い主ということです。しかし、はじめは、目の前にいるこのお方が救い主だとは知らなかったし、必要ともせず、期待もしていなかった。自分の罪、たましいの渇きを知る前は、私たちにとっても、イエス・キリストはいてもいなくてもどうでもいい存在だったかもしれません。

 

 6章でもイエス様は「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と語られました。ご自分をいのちのパンですという。食べるとは、からだの中に入れること。つまり、イエス様を信じることを指しますが、すると、永遠のいのちを持つと語られます。このことが理解できなく、拒絶した人もいました。

 

 キリストであるイエス様のことは当然、旧約聖書でも書かれていますが、イザヤ書55章では1「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」とあり、更に、6 「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあります。

 

 主イエスは「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタ 5:6)と語られました。そして、私たちを救うために、主イエスは十字架の上で、「わたしは渇く」と表明されました。黙示録でも、「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。」(黙 7:16)とあります。「・・・わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」(21:6)、「・・・渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(22:17)とあります。神様から離れている故に渇いている。潤っていない。自覚できないのは罪の故。今少しでも、魂に渇きを覚えているなら、主イエスのもとに来て、主イエスを信じ、心に溢れる御霊を内に宿す者とさせていただきましょう。

 

 

黙 3:17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。


20231119日 主日礼拝 ヨハネの福音書11- 18 「神が人となった」

 

 聖書66巻のうち、11節を暗唱している書というと、創世記11節の「はじめに神が天と地を創造された。」が一番多いでしょうか。次が、ヨハネの福音書11節の「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」でしょうか。一番最後の節で、暗唱できるのは少ないかもしれませんが、祝祷の時の、コリント人の手紙第二の1313節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」でしょうか。

 

 間もなくアドベント、そしてクリスマスを迎えますが、イエス様の誕生について、福音書に記されているのは、マタイとルカだけと言われるのですが、実は、ヨハネの福音書は別な観点から、イエス様の存在と人としての誕生を語っています。

 

 初めにことばがあった。この「ことば」と訳されたギリシャ語は「ロゴス」と言います。ロゴスにはいろいろな意味があって、ことば、事柄、計算、価値、答弁、理由、関係、割合という意味を持ちます。この箇所ではことばと訳すのが一番妥当です。そして、このロゴスは人として生まれる前の「先在のキリスト」を示します。「先在」とは受肉前、人となる前です。

 

 天地を造られたのは神様ですが、その神様はどなたか。私たちはてっきり、父なる神様を思い浮かべますが、三位一体の神様で、3節で「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」、またコロサイ人の117節からも、「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」ということが分かります。つまり、新約聖書を抜きに、このことを知り得ない。また、父と子というと、私たちはすぐ「父が先に存在する、次に御子」と考えたり、「母なる神がいないと、子は生まれない」ということになります。しかし、聖書の記述、論理は、私たちが想定することと異なることがあります。

 

 ことばとともにあった神は、「父」と断定できるか。「そうです」と言いたいのですが、三位一体の父と聖霊を言っています。そして、神とともにいたことばもまた神でありました。2節の「この方は、初めに神とともにおられた。」は1節の繰り返しとなります。

 

 キリスト教の異端は、唯一の神を否定するもの、三位一体の神を否定するもの、キリストが人となったことを否定するもの、キリストが神であることを否定するものです。なぜならば、聖書では、神様が唯一であること、三位一体であること、キリストは神であり、人になったことを教えるからです。ほぼほぼ、似通っていることを語りつつも、大事な点で異なっていたら、「似て非なるもの」ということです。聖書を否定して、キリスト教はなく、聖書を書き変えて、キリスト教というのもおかしなもので、異端は、キリストの威光を借りているだけです。

 

 4節、「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」とあります。父と聖霊にはいのちがないというのではなく、イエス・キリストを通して、私たちは三位一体の神様のうちにいのちを持ちます。また、いのち=人の光です。イエス・キリストを通して、人生を照らされます。5節の闇はこの世界、罪によって悪魔に支配されているこの世界ですが、私たちの中に光となっておられる神様に、悪魔は打ち勝てないということは、神に従い、神を愛する者には喜びです。

 

 さて、ヨハネの福音書を記したのは、12弟子のヨハネですが、神様から遣わされた一人の人ヨハネとは、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストが光であり、すべての人がキリストを信じるように、神様に遣わされました。実際は天から遣わされたというよりは、この使命をもって生まれ、生かされました。バプテスマのヨハネはキリストの露払い、先駆者として、当時大きな脚光を浴びました。しかし、バプテスマのヨハネは光ではなく、光であるキリストを証しするために用いられます。

 

 すべての人を照らす光、神の御子、イエス・キリスが世に来ようとしていた。私たちは地上と天を分けます。しかも、厳密に言うと、神様が造られた天地と、神様のお住まいになる天も分けます。ある人は鳥が飛ぶ空と、雲が浮かぶ空と、大気圏、さらに宇宙空間と分けるのですが、そもそも神様との交わりから私たちを絶ってしまったものは罪でした。罪がなければ、神様との交わりがあった。だから、9節の、光が世に来ようとしていたのも確かであり、10節の、この方はもとから世におられたというのも、確かです。しかし、罪の結果、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」結局は11節、イエス・キリスは「ご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」それはユダヤ人のみを言うのではなく、全人類です。

 

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」この人々は、「血によってではなく」、すなわち、ユダヤ民族だからというのではなく、「肉の望むところでも人の意志によってでもなく」、すなわち、人の願望や努力や意向によるのではなく、「ただ、神によって生まれたのである。」すなわち、救いは神様の一方的あわれみであり、恵みです。

 

 神の御子であるイエス・キリスは、人となって、人々の間に住まわれた。「私たちはこの方の栄光を見た。」の私たちは、聖書記者ヨハネを含むキリストを信じた人々。信じなかった人も含むでしょう。そして、時代を超えても、イエス様の姿を見たもの。栄光とは、名声、栄誉、尊敬、賞賛、賛美、輝く、尊厳、偉大、威光、華美、栄華、素晴らしさです。イエス様にお会いすれば、立っていられないのではないかと思います。イエス様は「恵みとまことに満ちておられた。」

 

 バプテスマのヨハネは人々に、キリストではないかと期待されていたが、本人は「私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです」と言い、イエス様が来られたとき、「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」と叫びました。

 

 イエス様がともにいてくださるとは、安心であり、励ましです。病が癒され、悩みが解決し、これまでの苦労が慰められる。それを「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」と語ります。面白い言い方ですが、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 

 

 人が神になるという表現は歴史の中で使われていますが、本当の神様が本当の人間になられたのは、イエス・キリスだけであり、私たちに恵みと救いをもたらせてくださったことに感謝します。


20231112日 ファミリー礼拝&子ども祝福式 マタイの福音書1913-15 「神の祝福」

 

 自分の子どもの頃のことを皆さんはどれだけ覚えているでしょうか。私たち夫婦には、成人した二人の子がいますが、不思議に、彼らはあまり子どもの頃のこと覚えていません。正確には、私たちが覚えていることは覚えていません。だから、その反対もあると思います。ただ、写真があったり、親と子どもがお互いに、「こんなことがあったよね」、「こうしたよね」というと、お互いに思い出したり、記憶が深まるのかもしれません。

 

 イエス様はもともと神様であり、その神様が人となったので、ご自分が人として生まれる前の記憶や生まれてからのすべての記憶を持っていたと思いますが、それについては聖書にすべてが書かれているわけではありません。さて、ルカの2章では、ベツレヘムでお生まれになり、飼葉桶に寝かせられ、八日目には、御使いが胎に宿る時に告げられた「イエス」という名前を付けられ、両親とともにエルサレムに行き、最初に母の胎から出てきた男子として、神様に捧げられました。

 

 その間、キリストを見るまでは決して死を見ることがないと聖霊に告げられていたシメオンは幼子イエスを抱き、神様をほめたたえました。アンナという84歳の女預言者もイエス様のことを語ります。シメオンにとっても、アンナにとっても、救い主イエス様にお会いできたことは祝福でした。もちろん、すべての人にとって、イエス様にお会いすることは祝福です。

 

 マリアもヨセフも、イエス様の妊娠が神様によるということを知っていながら、エルサレムでシメオンとアンナに会うという、不思議な体験をします。イエス様は心身共に成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神様の恵みがありましたし、両親は毎年エルサレムに来ていました。

 

 小さい赤ちゃんもかわいいですが、ハイハイし、立って歩くようになり、お話しする子どもたちもかわいいだけではなく、微笑ましく、将来が頼もしいものです。

 

 たいがいのことは、子どもが大きくなるまで、親が子を守り、育てますが、すべてのことを親だけでできるのではなく、保育所や学校、地域や教会で、人々のまなざし、愛情、助けのうちに育ちます。

 

 さて、イエス様がキリストとして、地上で過ごされたとき、イエス様は人々に聖書のことを教えたり、病気の人を直されたりしていましたが、不思議と、子どもを持つ親たちは、子どもをイエス様のところに連れてきました。年に何度か、神様を礼拝にエルサレムに行くことはありましたが、みんなが家族で行けるとは限りません。そして、子どもを連れて旅をするのは実際は大変です。でも、イエス様が自分たちの町に来ているのならば、これはいいチャンスです。イエス様に健康や成長の祝福をしてもらおうと考えたのでしょう。

 

ところが、イエス様の弟子たちは親の気持ちはわからなかった。イエス様は病気の人をお癒しするのに、忙しい。子どものために、祝福してはいられないと考えた。

 

イエス様は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言われ、イエス様は子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。

 

 大人でも子どものような人がいますし、子どもでも大人のような人がいますが、「子どものように神の国を受け入れる」とは、神様がおっしゃるので、そのことを信じますという態度です。聖書には、神様を敬い、神様のことばを素直に受け止めた人々が大勢います。なんでも信じるのではなく、誰が言っていることか、しっかりわきまえています。

 

 実は、イエス様の弟子でも、イエス様がおっしゃることを受けとめることができない者もいました。一番大きかったのは、イエス様が「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと」ということでした。

 

 モーセを通して与えられた10の戒めに「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」という勧めと励ましがあります。このことを含めて、イエス様が大切だと教えてくださったのは、『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということ。こうすることは子どもだけではなく、すべての人にとって、神様の大きな祝福となります。

 

 さて、もう一度、イエス様のことばを見ます。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」ここでは、年齢的に、体格的に、子どもと言われる者の他に、神様に造られた神の子どもたちと広げて考えましょう。イエス様のところに行こうとしている時、従おうとしている時、それを阻止する存在は、悪魔であったり、もう一人の自分であったり、他のだれかであったりします。あらゆる理由を持ち出して、納得させようとします。まだ若いとか、まだ早いとか、もう遅いとか、今は忙しいとか、疲れているとか、時間がないとか、稼がなければならないとか。どれももっともな理由です。しかし、イエス様が与えてくれる祝福は、地上のレベルと違う。御国の視点から見れば、捕らえ方が違って来る。神様の側から見た視点を持たずに、人間的視点でばかり物事を見ていると、休息も、励ましも、祝福も受けないままになってしまう。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

 

 

 イエス様はご自分の手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。子どもたちばかりか、子どもたちを連れてきた人々も、はじめ子どもを邪魔者扱いした弟子たちもみんなイエス様の祝福を受けることになります。そして、イエス様を知ったこと、イエス様と共に生きることを喜びとします。神様の祝福は一瞬ではありません。ずっと続きます。そして、その祝福が続いていることを確認することも時折、必要なことです。